書く理由

10月17日に行われた、上妻世海×佐々木敦トークイベント@青山ブックセンターへのリアクション。

私はこれまでずっと、自分は言葉を紡ぐのが得意だと思って生きてきたけど、どうやらそうでもないらしい。頭の上に糸のかたまりがふわっと浮かんでいるところから紡ぐというよりは、自分の身体からそのまま紡ぎ出していくような感じで、それをラク~にやってるつもりだったのが、意外と文字通り身を削っていたことに気づいた。実際、頭と肩はちょっとした文章を書くだけでもガチガチに固くなってしまうし、油断するとさらに悪化して頭皮に発疹ができる。「書こうと思えばいくらでも書ける」と思ってたけど、無理だ。それを悟りはじめた今日この頃。ここ数ヶ月くらい。得意ではないし、もしかしたら好きでもないかもしれない。

短い文章や詩みたいなものなら書けるんじゃないか、とも思っていたんだけど、長さはあまり関係ないみたいで、むしろ短くしようとすればするほど頭は使うし、気づくと身体がゴリゴリに凝って、目は冴えて眠れなくなって、あまり良いことがない。しかも、苦労して書いてもそれが思い描いていたように人に伝わることはほぼない。

それでも書くことをやめられないのは、上妻世海が「形にすることで自分との対話が生まれる」と言っていたように、私は私自身とのおしゃべりを続けたいからなんだと思う。頭の中で考えているだけだとただの独り言。相手がいなくて閉塞感が高まるばかり。それを文章にして、文字列という形にすることで、他者(自分の外側にあるもの)を作り出すことができる。いや、これまさに「私ではなく、私でなくはないもの」なのかも。(※ここもっと読み込んで考えていきたいところ)

思えば、「何度も読み返したいと思う文章」「何度も読み返している文章」って、お気に入りの小説でもなく大切な人からの手紙でもなく、結局自分が書いた文章だ。ツイートなりブログなりiPadに残したメモなり。そもそも、文章を書く段階で何度も読み返して推敲するし、その時点ですでに対話は生まれている。

人に伝えるため、承認を得るため、思考を整理するため……に書くのではなく、「制作し続ける身体」をキープするために書く。そして読む。また書く。の繰り返し。これでいいのだ。

「言葉を紡ぐのが得意じゃない」から始まった文章だけど、それでも私はやっぱり書き続けるんだ。

 

「独り言言葉」を「書き言葉」に変換する行為(書くこと)についてもっと考えていきたいが、それはまた別の話。とりあえずここまで。

複数(ひとつ)の世界がひとつ(複数)になる時に起こっていること

「鳥は視野が360度あるので、斜め後ろや真後ろの物も見える。人間はせいぜい190度。」これを本で読んだ時に、これまでだったら「鳥はすごいなぁ」で終わっていたんだけど、今回はちょっと違った。もちろん、自分は後ろが見えないのに鳥は見えていると思うと、単純にすごいし羨ましいんだけど、さらに先がある。

鳥がすごいというわけではない。人間が劣ってるわけではない。それぞれがそういう選択をしただけなんだ、ということ。鳥は鳥の世界を見て、鳥の世界を生きている。人間は人間の世界を見て、人間の世界を生きている。じゃあ「世界」って何?

鳥が「鳥である」時と、人間が「人間である」時。この2つの時がたとえ同時であっても、その状態の鳥と人は同じ世界には存在できない。「鳥でない」時と「人間でない」時でも同じ。鳥が「鳥でなく、鳥でなくもない」時と、人間が「人間でなく、人間でなくもない」時であれば、それは同じ世界に存在できる。その世界に存在するものは、もはや鳥とか人間とかではなくて、もっと細分化された物質と、視覚や聴覚や嗅覚などの感覚。 ※はじめにこう書いたけど、「還元主義的」と指摘をしてもらったので書き方を再考する必要あり。 

「私は私、あなたはあなた。互いに尊重し合いましょう。」だけじゃ世界はいつまで経っても1つにならないのだ。

 

 

※打ち消し線の部分

鳥と人間はそれぞれ個物として存在しているので、それを細胞や原子や分子に分割して「他と同一」としてしまう書き方はあまりにも乱暴だった。鳥と人間、それぞれに内部と外部があるけれど、内は外を包摂し、同時に外が内を包摂するということを考えていくと、内とか外とかいうマトリョーシカ的な階層がそもそも機能するのかという疑問がわく。(マトリョーシカを思い浮かべた瞬間「同時」が存在しなくなる、という感じがする)

清水高志先生のツイートがいつも導いてくれるので参考にしつつ、ここはまだまだ考えていかなきゃいけないところ。とにかく、「世界はひとつだ」とか「それぞれの世界だ」とか、これまで何の疑問も持たずにサラッと書いてきたことが、もうサラッと書けなくなっている。子どもや、初めて足を踏み入れた人(未踏の人)にも分かるように、物事を簡単な言葉で記述することが私の目標というか理想だけど、どうシンプルにしていけるのかも同時に考えていきたい。

建築を生命として捉える

 今日はこれを聴きに行った。

seimeitokenchiku.peatix.com

 

 福岡先生による生命の定義「生命とは動的平衡である:まず自らを壊し(負のエントロピー増)、そこに新しいものを取り込むことによって自らを作り替えていく」をもとに、建築のあり方を考える、という流れ。

 

 建築=生命である、と捉えるためには、建築物だけを単体でどうにかしようとしてはいけない。そこを出入りする人間や光、空気、水などをひとつの流れとしてイメージすれば、自ずと建築=生命になる。実はものすごくシンプルなこと。

 でも建築家がそれを実現、実感するのに苦労しているんだとしたら、それは人間の生き様があまりにも都市化、現代化しすぎているせいだと思う。体を動かさず、五感を使わなくなっている。頭の中と小さな機械端末だけで世界を捉えようとしている。そんな殻に閉じこもった生物にどんな柔軟な環境を与えても、なかなか流動的な相互作用は生まれない。

 建築が生命として生き生きと動き続けるためには、人間が自らを開いて関わり続けなければいけない。設計、構想の段階から、自分自身が止まったまま建物をどうするのか考えるのではなく、思考や計画を常に作り替えながら進んでいくことが大切。そして出来上がった建物とも積極的に関わる。少しずつ変化させながら維持していく。(壊れやすくても、直しやすければいいんじゃない?)

 

 今の人間の技術では、小さなハエ1匹でさえ作ることができない。けれど、建築物を生命体と捉えれば、十分に作ることができる。共生することができる。細胞や分子レベルのミクロなスケールや、地球や宇宙レベルの壮大なスケールで考えると、どちらも人間の力で作り出すことはできないので、結局人間って無力なんだなーと思ったりするけど、「建築」ってそんな人間が等身大で作り出せるちょうどいいスケールの生命体じゃないかと思った。

 

 そしてとにかく、地球の歴史や生命の歴史からすれば人類の歴史なんてほんの一瞬であるということ。これが腑に落ちていないと、いつまでも人間的苦悩からは抜け出せない。だからといって「どうせいつか人間なんて滅びるんですから」とか言ってたら建築家は務まらないし。大変な仕事だ。

やるべきことを決めるのは誰か(何か)

 「やった方がいい(かもしれない)こと」と「やらなくてもいい(かもしれない)こと」に大した差はない。考えなくていい。「やるべきこと」だけに集中してやればいい。

 やるべきことは、考えなくてもわかる。考える前に体が動く。やりたいかやりたくないか迷うこともない。迷うことがあるとしたら、やりはじめてふと足を止めた時だ。足を止めた時点で、やめるべきだと体が反応したらやめればいい。続けたかったら続ければいい。それだけの話。

 やるかやらないか。動くか動かないか。それを自分で決定することが要だとずっと思い込んで生きてきたけど、動きを止めて決定を下そうとしている時点で意識は「止まってしまってる」ことに気づいた。もっと大切なのは、動きを止めないこと。流れを感じ続けること。自分をどこかに固定しないこと。

 自分というものがあるとしたら、「自分ではなく、自分でなくはない」時空の中。そこには自分だけがあるのではなく、他のものと一緒に存在している。このことが、2年くらいかけて本を読んだり人と話したり考えたりしてやっと腑に落ちて、まだぼんやりはしているものの、この1週間ほどで確実に掴めてきた。

 そういうことになると、もう「立ち止まって」「自分は何をやりたいか、やるべきか」「どの方向に動くか」などを事前に考えて決定することが無意味に思われる。自分と自分ではないものの流動性の中で、自ずとやるべきことは現れる。それをやればいいだけ。

 

 こうして何かを書き残すタイミングも、自然にやってくるから不思議だ。まぁ、不思議でも何でもないのかもしれない。自然ってそういうことだ。

自分がどこまで分かっていて何を分かっていないのか探るための試し書き

 瞬間的に全細胞が入れ替わってしまうほどの刺激や衝撃というのは、外からの力よりも内からの力がほんの少しでも勝った時に起こると思う。内からの力が弱い時に、いくら外から力を加えても無駄な気がする。少なくとも私の身体ではそう。

 生命とは、動きである。最大限にその動き(変化)が大きくなるのは、内からの力と外からの力が拮抗している静的な状態の中で、ほんの刹那、内からの力がわずかでも大きくなった瞬間だと思う。両方の力が拮抗していると、気づかないうちに内と外が入れ替わったりすることもあるだろう。そうやって矢印がごちゃごちゃ行ったり来たりしていると、ある時、内からの力が外からの力を上回る。そこで初めて、そこまで溜め込まれていた(拮抗状態で行き場のなかった)エネルギーが「動き」に使われる。そういうイメージ。

 この「内からの力」というのが、AIにはまだまだ出せないということじゃないかな。

 

 「内」と「外」をさらに解像度上げて考えて書き起こそうとしたら頭が痛くなってきたので、今日はここまで。

 

噴水

  ワルシャワのサスキ公園に、大きな噴水がある。噴水目当てで行ったわけではなく、単に(公園気持ちよさそうだな~)とふらっと入ったら、立派な噴水があったというだけ。そんなに長時間いるつもりはなかったのに、やけに惹かれてしまい、しばらくボーッと水を眺めていた。

 

f:id:natsukitunes:20180817184158j:image

f:id:natsukitunes:20180817183854j:image

f:id:natsukitunes:20180817183920j:image

 

  写真にすると動きが止まってしまうのでもはや別物だが、ワシャーーーーーーッと大きめの音を立てながら、ひたすら吹き出しては落ちるだけのそれは、特別美しいわけでもなく、下品なわけでもなく、便利なわけでもない。水の動きが面白くて眺めているうちに、「で、結局これ、なんなんだ?」と不思議になってきた。

 

  私の中で「水」といえばまず自然物で、海の広さとか、川の流れとか、滝の勢いとか、雨や雪の冷たさとか、どれも自分でどうこうできるものじゃないと思っていた。ただ、そこにあるもの。変化し続けているもの。

  それに対して噴水は、完全に管理された人工物で、ひたすらその場で循環しているだけ。しかもわざわざエネルギーを使って自然の重力に逆らっている。富や権力を顕示するために、こんなことしようと考えるんだなぁと、ヨーロッパの人たちの感覚を新鮮に思った。時間とお金に余裕がある人たちの贅沢、娯楽なんだ。要は遊び。大人の水遊び。

 

  噴水、面白いじゃん!もっと見たい!となって、噴水公園にも行ってみた。


f:id:natsukitunes:20180817190724j:image

f:id:natsukitunes:20180817192026j:image

f:id:natsukitunes:20180817192051j:image
f:id:natsukitunes:20180817192408j:image

 

  こちらは、吹き出す量、タイミング、強さを操作して、良い意味でふざけている感じ。ピューーーーーーン!ピヨピヨピヨピヨ、ピヨーーーーーン!みたいな。東京でここまでの規模の噴水は見たことなかったので、ここでもしばらく佇んでいた。

  水には形があるようでないようで。一瞬だけあらわれるその形を自分の目で捉えてはまた次の一瞬を捉え……という一瞬の連続を楽しんだ。波打ち際にいる時の気持ちと似ていたかも。

  これから日本でも噴水を見かけたら、注意して見てみようと思う。

 

ポーランド旅行記2)

周防大島物語

  ある、海と山に挟まれた小さな町に、翁が住んでいた。ある日、遠くから孫とその母親が遊びに来たので、一緒に海へ行くことにした。孫はもうすぐ2歳になる。

  孫と並んで歩いていたが、母親を求めて引き返してしまった。後ろ姿をたしかに見たと思ったが、孫はそのまま消えてしまった。

  家族みんなで探しても探しても、孫は出てこなかった。そのうち町の者が集まってきて、みんなで探した。ある者は、誰かに連れ去られたと言った。またある者は、鷹に捕って食われたと言った。2日経っても出てこないので、もうどこかで死んでいると思われた。

  翌朝、山の向こうから、見たこともない男がやってきた。男は、お前の孫がどこにいるか分かると言った。孫はまだ生きていると言った。そして山を登りはじめた。名前を呼びながらしばらく行くと、孫が「おーい、ここだ」と応えた。孫は苔のむした岩の上に座っていた。飴をやると、そのまま噛んで食べた。男は孫を抱いて、翁と母親に返した。みんな喜んだ。死んだと言った者は、たいそう驚いた。

  男は、初めてこの町に来たそうである。子をこの世に引きとめたので、崇められ、感謝された。祝いの宴が終わると、自分の国へ帰って行った。