AIについての講演を聴いて思ったこと

白か黒かというデジタルな選択・決断をしないと動かないのは生物らしくないと思う。「変わるのが当たり前」「どっちか分からない」が本来は自然で、その中で傷ついたり死んだりするのも自然なことなのに、人間は何でもかんでも未然にAはBだとか白か黒かとか決めておいて、不安や危険を「防ごう」とか「避けよう」とかしようとする。「今、我が身に降りかかったらどうするか」の方が大事な問題だと思うんだけどな。

人間以外の動物は、基本的に「これだけはやっとこう」みたいなシンプルで最低限のルールだけで動いてるからいいよね。人間だって「食べて寝よう」くらいでよくない?だめ?

法律、規則、ルールなんかって本当に必要なのかなぁ?一旦全部なくしてめちゃめちゃにした方が、世の中よくなるんじゃないかと本気で思う。自分が死ぬ可能性も高くなるかもしれないけど、私はもうだいぶ覚悟が決まっているので、死んでしまったらその時はその時で仕方ないと思える。死ぬ直前で「死にたくねぇぇぇぇ」と強烈に思うだろうけどそれも織り込み済み。

世の中の様々な争いや対立やいざこざを見ていると、ちっぽけで無駄な消耗戦が多いなぁと思う。そんなことに頭や体や時間使うのもったいないよ。テロや殺人事件なんかの方がよっぽど自然でいいなと思っちゃう。テロも殺人も、平成時代の日本人としては「許すことはできない」って言うしかないけど、自分が神だったら「人間たちよ、それでいいのだ」って言うなぁ。

 

それぞれの個体に本能的に決まっていることは多分あって、それだけでいいはずなんだ。

決意新たに 書き方3種

アウトプットという行為(特に文章を書くこと)に価値を見出せなくなっていたここ数ヶ月間だったが、「やっぱり形にしないと意味がない」に戻ってきた。日曜日の夜、奥野克巳先生とおしゃべりした時にこれは確信に変わった。「ですよね、やっぱ書かないとダメですよね」ってハッキリと口にした自分がいた。

脳内でいくら考えを巡らせたりまとめたりしても、脳は最強のブラックボックスなので、以後どうなってしまうか分からない。明日の朝には消えてしまっていることもしょっちゅう。信用ならない。なので書いた方がいい。

じゃぁどうやって書くか?何で書くか?これはもう少し考え続けたいところ。手段としては、①パソコン(長文)、②スマホツイッターで短文)、③手書き(長さ色々)、の3通りがある。今は全部やっている。

①パソコンと③手書きは、アウトプットのスピードは全然違うけど、黙読で読み返した時の読みやすさは不思議とかなり近いように思う。自分に話しかけるように書いているからかな。スイーッと頭に入ってくる。逆に、②スマホで書いた文章は、読み返した時に不満を感じることが多い。ツイッターで140字に凝縮しようとするあまり濃度が不自然に高くなっていたり、人目が気になって素直に書けていなかったりする。やっぱりフォロワーとかいいねとか、向いてないんだな私。でもツイッターツイッターの役割があるので、上手く使い分けていきたい。

③手書きは本当に楽しい。改めて、字を書くのが大好き。しかも日記だったら何を書いても誰にも何も言われない。最近はApple pencilでiPadにばかり書いていたけど、しまいこんでいたノートを出してきて、またちょっとずつペンで書き始めた。やはり性に合っている。

 

周りにはアウトプットがとても上手な人がたくさんいて、私はなんでこんな平凡なことしか書けないんだろうって思うこともあるけど、それと同時に「他人の書いたものは本当は全部どうでもいい」とも思っている。自分の身体の中で生まれ、濾過し、抽出した言葉にしかない魂が絶対にある。他人の真似しても意味がない。

みんなそうやって書いているんだ。それが他者の心に響くかどうかってのは、また別の話だ。

生命のつくりと流れ

脳、身体、意識、心、遺伝子、は分けて考えること。

感覚、経験、言葉、音楽などは、それらの間に存在し、それらを繋いだり離したりする。

魂の正体はまだよく分からない。

 

何冊か本を読んで書いているうちに、そんなところまでは見えてきた。

 

意識の進化的起源: カンブリア爆発で心は生まれた

意識の進化的起源: カンブリア爆発で心は生まれた

 
ダンゴムシに心はあるのか (PHPサイエンス・ワールド新書)

ダンゴムシに心はあるのか (PHPサイエンス・ワールド新書)

 
生存する意識

生存する意識

 

 

 

未来の見方

時間を形にして可視化して考えるとして、わかりやすいのはパラパラ漫画。では、この世界がパラパラ漫画だとすると、次の1ページがどうなるかは、いつどうやって決まるのか?

福岡伸一は、このパラパラ漫画のページに「厚みがある」とした。そしてページとページの端が少しずつ重なっていると。それで考えると、次の1ページが全く別の場面になることは考えにくく、SFで描かれるような瞬間移動も現実的ではないことが簡単にイメージできる。ページとページは、どこかできちんと連続している(①)。でも、いくら端が少し重なっているとはいえ、どの方向に動いていくかは、多数の要素が絡み合って決まるので、事前に予言することは不可能である(②)。

 

「何事も経験しないと分からない」とよく言われる。未経験者を見下したり揶揄したりする時にも使われる。確かに間違いではないので、「やってみたい」というモチベーション(原動力)になるし、実際に経験した後は達成感に包まれたり誇らしくなったりする。

ただ、経験した者でないとそのことについて本当に理解したとは言えない、語る資格を得られない、となると少し話がおかしい。そんなことを言ったら、経験の種類や長さだけで優劣や説得力が決まることになる。何なら生まれた国や家庭が全てを決めることになる。そんなはずはない。でも、「経験してない癖にわかったような口を聞くな」と感じることがあるのも確かで、こういう感覚はどこから生まれるのだろう?

 

そこでパラパラ漫画の話に戻って考えると、経験云々を語る時には、①連続性と②予測不可能性の両方を腑に落としておくことが大事なんじゃないかと思う。しかも②予測不可能というのを、暗闇で前が見えないようなネガティブな性質として捉えるのではなく、明るく照らされた道が無限に用意されているといういわば”超ポジティブ”に捉えることが大事。

たとえ経験していなくても、今自分が立っている時空の余白や余韻をもとにして(パラパラ漫画の重なったページ部分をもとにして)、「どこへでも行ける、行く可能性がある」と身体を構えておくことはできる。「これをしたらこうなるに違いない」とか、「こうなるはずがない」とか、勝手に可動域を制限しないこと。でも同時に「重なりの部分」も無視しないこと。土台も必要なので。

 

もちろん、経験できることはした方がいい。でも経験がすべてじゃない。身体の構えがなってない(腑に落ちてない)状態でむやみに経験だけを重ねるよりは、毎日の食事や入浴などルーティンワークをこなす中でフォームを鍛える方がよほど大事だと思う。

上妻世海の制作論と、こういうところから繋げていけばいいのかな。

書く理由

10月17日に行われた、上妻世海×佐々木敦トークイベント@青山ブックセンターへのリアクション。

私はこれまでずっと、自分は言葉を紡ぐのが得意だと思って生きてきたけど、どうやらそうでもないらしい。頭の上に糸のかたまりがふわっと浮かんでいるところから紡ぐというよりは、自分の身体からそのまま紡ぎ出していくような感じで、それをラク~にやってるつもりだったのが、意外と文字通り身を削っていたことに気づいた。実際、頭と肩はちょっとした文章を書くだけでもガチガチに固くなってしまうし、油断するとさらに悪化して頭皮に発疹ができる。「書こうと思えばいくらでも書ける」と思ってたけど、無理だ。それを悟りはじめた今日この頃。ここ数ヶ月くらい。得意ではないし、もしかしたら好きでもないかもしれない。

短い文章や詩みたいなものなら書けるんじゃないか、とも思っていたんだけど、長さはあまり関係ないみたいで、むしろ短くしようとすればするほど頭は使うし、気づくと身体がゴリゴリに凝って、目は冴えて眠れなくなって、あまり良いことがない。しかも、苦労して書いてもそれが思い描いていたように人に伝わることはほぼない。

それでも書くことをやめられないのは、上妻世海が「形にすることで自分との対話が生まれる」と言っていたように、私は私自身とのおしゃべりを続けたいからなんだと思う。頭の中で考えているだけだとただの独り言。相手がいなくて閉塞感が高まるばかり。それを文章にして、文字列という形にすることで、他者(自分の外側にあるもの)を作り出すことができる。いや、これまさに「私ではなく、私でなくはないもの」なのかも。(※ここもっと読み込んで考えていきたいところ)

思えば、「何度も読み返したいと思う文章」「何度も読み返している文章」って、お気に入りの小説でもなく大切な人からの手紙でもなく、結局自分が書いた文章だ。ツイートなりブログなりiPadに残したメモなり。そもそも、文章を書く段階で何度も読み返して推敲するし、その時点ですでに対話は生まれている。

人に伝えるため、承認を得るため、思考を整理するため……に書くのではなく、「制作し続ける身体」をキープするために書く。そして読む。また書く。の繰り返し。これでいいのだ。

「言葉を紡ぐのが得意じゃない」から始まった文章だけど、それでも私はやっぱり書き続けるんだ。

 

「独り言言葉」を「書き言葉」に変換する行為(書くこと)についてもっと考えていきたいが、それはまた別の話。とりあえずここまで。

複数(ひとつ)の世界がひとつ(複数)になる時に起こっていること

「鳥は視野が360度あるので、斜め後ろや真後ろの物も見える。人間はせいぜい190度。」これを本で読んだ時に、これまでだったら「鳥はすごいなぁ」で終わっていたんだけど、今回はちょっと違った。もちろん、自分は後ろが見えないのに鳥は見えていると思うと、単純にすごいし羨ましいんだけど、さらに先がある。

鳥がすごいというわけではない。人間が劣ってるわけではない。それぞれがそういう選択をしただけなんだ、ということ。鳥は鳥の世界を見て、鳥の世界を生きている。人間は人間の世界を見て、人間の世界を生きている。じゃあ「世界」って何?

鳥が「鳥である」時と、人間が「人間である」時。この2つの時がたとえ同時であっても、その状態の鳥と人は同じ世界には存在できない。「鳥でない」時と「人間でない」時でも同じ。鳥が「鳥でなく、鳥でなくもない」時と、人間が「人間でなく、人間でなくもない」時であれば、それは同じ世界に存在できる。その世界に存在するものは、もはや鳥とか人間とかではなくて、もっと細分化された物質と、視覚や聴覚や嗅覚などの感覚。 ※はじめにこう書いたけど、「還元主義的」と指摘をしてもらったので書き方を再考する必要あり。 

「私は私、あなたはあなた。互いに尊重し合いましょう。」だけじゃ世界はいつまで経っても1つにならないのだ。

 

 

※打ち消し線の部分

鳥と人間はそれぞれ個物として存在しているので、それを細胞や原子や分子に分割して「他と同一」としてしまう書き方はあまりにも乱暴だった。鳥と人間、それぞれに内部と外部があるけれど、内は外を包摂し、同時に外が内を包摂するということを考えていくと、内とか外とかいうマトリョーシカ的な階層がそもそも機能するのかという疑問がわく。(マトリョーシカを思い浮かべた瞬間「同時」が存在しなくなる、という感じがする)

清水高志先生のツイートがいつも導いてくれるので参考にしつつ、ここはまだまだ考えていかなきゃいけないところ。とにかく、「世界はひとつだ」とか「それぞれの世界だ」とか、これまで何の疑問も持たずにサラッと書いてきたことが、もうサラッと書けなくなっている。子どもや、初めて足を踏み入れた人(未踏の人)にも分かるように、物事を簡単な言葉で記述することが私の目標というか理想だけど、どうシンプルにしていけるのかも同時に考えていきたい。

建築を生命として捉える

 今日はこれを聴きに行った。

seimeitokenchiku.peatix.com

 

 福岡先生による生命の定義「生命とは動的平衡である:まず自らを壊し(負のエントロピー増)、そこに新しいものを取り込むことによって自らを作り替えていく」をもとに、建築のあり方を考える、という流れ。

 

 建築=生命である、と捉えるためには、建築物だけを単体でどうにかしようとしてはいけない。そこを出入りする人間や光、空気、水などをひとつの流れとしてイメージすれば、自ずと建築=生命になる。実はものすごくシンプルなこと。

 でも建築家がそれを実現、実感するのに苦労しているんだとしたら、それは人間の生き様があまりにも都市化、現代化しすぎているせいだと思う。体を動かさず、五感を使わなくなっている。頭の中と小さな機械端末だけで世界を捉えようとしている。そんな殻に閉じこもった生物にどんな柔軟な環境を与えても、なかなか流動的な相互作用は生まれない。

 建築が生命として生き生きと動き続けるためには、人間が自らを開いて関わり続けなければいけない。設計、構想の段階から、自分自身が止まったまま建物をどうするのか考えるのではなく、思考や計画を常に作り替えながら進んでいくことが大切。そして出来上がった建物とも積極的に関わる。少しずつ変化させながら維持していく。(壊れやすくても、直しやすければいいんじゃない?)

 

 今の人間の技術では、小さなハエ1匹でさえ作ることができない。けれど、建築物を生命体と捉えれば、十分に作ることができる。共生することができる。細胞や分子レベルのミクロなスケールや、地球や宇宙レベルの壮大なスケールで考えると、どちらも人間の力で作り出すことはできないので、結局人間って無力なんだなーと思ったりするけど、「建築」ってそんな人間が等身大で作り出せるちょうどいいスケールの生命体じゃないかと思った。

 

 そしてとにかく、地球の歴史や生命の歴史からすれば人類の歴史なんてほんの一瞬であるということ。これが腑に落ちていないと、いつまでも人間的苦悩からは抜け出せない。だからといって「どうせいつか人間なんて滅びるんですから」とか言ってたら建築家は務まらないし。大変な仕事だ。