科博へ向かう電車の中でSFを読みながら考えた

自然の姿が、人間によって恣意的に切り取られ、美しいとか綺麗だとか怖いとか神秘的だとか壮大だとか勝手に価値を置かれ、それが毎日何千も何万も生産されてネット上でシェアされていくの、怖いと思う。

 

境目のないグラデーションがどんどん失われて、見えない部分もどんどん忘れられて、"知れば知るほど"、作用反作用的に別の何かが失われていくと思う。

 

って、分かっているけどガンガン消費して流していってしまう。やっぱり言葉が邪魔なのかもしれない。

身体感覚

色々頭の中で言葉を巡らすうちに、ハッこれはこういうことか!あれはああいうことか!つながった……!となって、諸々まるごと腑に落ちる瞬間が最近よくある。頭でそれが正解(っぽい)と分かったつもりでも、体が分かっていなかったということに、そこで初めて気づく。そしてそこで得た体感を改めて言葉にすると、あまりにも当たり前というか当然のことなので、逆に今まで自分はこのことを分かっていなかったのか、身体を通せていなかったのか、と驚愕する。自分がよく見えなくなる。

 

ここで自分が見えなくなるのは多分良いことだ。自分VS世界という妙な対立構造が一旦解除された証拠だ。あとはもう、自由に好きなタイミングで好きな場所に、私というプレイヤーを置いて動かすだけだ。

 

考える時は致し方なく二次元に落とし込んで分解するけれど、これらは全部次元を跨ぎながらどこかで同時に起こっているはずだ。

 

今読んでいる本は:

マイク・ハンセル『建築する動物たち』

パーカー『動物が見ている世界と進化』

テレンバッハ『味と雰囲気』

また『レヴェナント』のことを考えている

やっぱり「死んだら全部終わり」なのがもったいなくて、私は頑張って生きれるとこまで生きようとすると思う。そしてその渦中では、生きるとは何かとか、自然とは何かとか、自分とは何かとか、神とは何かとか、絶対に考えられない。それどころじゃないはずだ。というか、考えなくても身体が全部わかってると思う。環境と一体になっていると思う。これが、生き物として一番「正しい」状態だと思う。人間が、なりたくても簡単にはなれない状態。

 

ブッダがやろうとしたこと、ちょっとわかった気がする。

極限状態

多大な影響を受けた映画『レヴェナント』を3年ぶりに再鑑賞した。変わらず良かった。

トム・ハンクス主演の『キャスト・アウェイ』を観た時にも考えたけど、自分がもしああいう極限状態に置かれたらどうなるのか。どこまで生きられるかというより、どこまで「生きたい」と思うのか。すぐに諦めて死んでいくモードに入るのか、いけるとこまでいってみようとして頑張るのか(頑張っても今の身体だったらすぐ死にそうだけど)。

ディカプリオもトムハンクスも、大切な人のために頑張っている。その人がいなかったらあんなに頑張って生き延びようとしないんじゃないか。今の私には、そこまで思えるほどの人がいるのか。

生命力が強いというとポジティブなイメージだけど、つまりそれは生への執着心が強いということで、果たしてそこまで粘る価値があるのか。「どうせ死ぬならどこまで生きられるのかやってみよう」というゲーム感覚ならまだ分かる。「死にたくない」はよく分からない。

 

何を考えても想像しても、結局は「いざその時にならないと分からない」んだけど、じゃあいざという時まで考えなくていいのかというと、そうじゃない気がする。来るか来ないか分からない「いざという時」を想像することは、現在の自分を積極的に更新していくことだ。可動域を広げることだ。生まれ直して生き直す、みたいな感覚。

「今の自分のまま」のイフを考えても意味がない。絶対に今の自分のままということはありえないから。この遊びの醍醐味は、「どういう自分が現れるのか」をこれでもかというくらい具体的に考えること。それで普段の感じに戻ると、景色が全然違って見える。楽しい。

無人島にひとつだけ何か持って行くとしたら?というよくある質問の答えも、突き詰めていくと楽しい。同じこと。

 

とりあえず、「生きたい」と思った時に生きれた方がいいから、身体は整えておこうと思う。

同学年

「この人と話すと教わるより教えることが多い」または「教えるより教わることが多い」のどちらかである人間関係ばかり築いてしまってる気がする。無意識に。自分を上か下かどちらかに置いてしまっている。はたまた内か外かのどちらかか。それはそれで好きなんだけど。

 

対等というのは案外難しい。が、何だかんだ言って、学年が同じというのは大きい。それだけでナチュラルに親近感がわいて対等でいられることが多い。幼児期から高校卒業くらいまでは、基本的に社会から一斉に教育しようとされてたから、仲間意識が強いのかな。「DVDが出始めた」「ケータイがパケ放題になった」「世界に一つだけの花がアホみたいに流行った」みたいなティーネイジャーにとって大事なイベントを、同年齢で共有してるというのもあるかも。

 

同年代よりさらに貴重な、同学年であることの価値。たまたま仲良くなった人の年齢を聞いたら自分と同じだった時の喜びは意外と大きいのだと、昨日の六本木で実感した。

 

できれば年齢は後から知りたいけどね。最初から「同い年だ!」とかいって寄ってくのは違うかなぁ。

続 遊ぶこと

遊んでいるその時が楽しいのであって、「これをして遊んだ」と後で書いている時にはその遊びの楽しみは終わっている。というか完全に形は変わっている。自分も遊びの一部ではなくなっているし。

 

「楽しい」って、遊んでる最中にはあまり考えないよな。後で「楽しかった」と言うだけで。強いて言うなら、遊びの最中にちょっと休憩で止まった時に「今、楽しいなぁ」とか思う。

 

全ては流れの中にある。

遊ぶこと

「今こんな風に遊んでいます」「今日はこれをして遊びました」と誰かに言わなきゃいけない決まりはどこにもない。「ただ遊ぶ」ことに憧れて、最近は色々遊んでるんだけど、SNSに書くことを敢えてやらないでみている。どうしても「楽しかった!」とか言いたい時は同居人に帰宅してから話す。

 

他人がどうやって遊んでいるかなんて、本来はどうでもいい(気にしなくていい)ことだと分かっていても、私の場合、目にしてしまうと少し影響されてしまう。何かしらの思いが浮かんでしまう。その処理の時間はちょっともったいないと感じる。自分がSNSで発信することでも同じ時間のロスが生まれる。

 

思いきり遊んで、疲れて、寝る。の繰り返しが今は理想。職場で毎日子どもたちの遊びっぷりを見ていると、心底そう思う。遊び上手な大人は沢山いるけど、インターネットを使ってそれを報告したり発信したりすることで、ピュアな遊びの形(があるとしたら)が歪んでしまう気がしてる。というか自分で演出したり形作っちゃったりしている、その付け足しの行為がなんか違うなーと。

 

遊びっぱなしがいい。実況中継や報告はいらない。人とのつながりは、SNSじゃなくて遊びの場で作ればいい。

 

というか、私自身がやっぱりSNSに向いてないのではないかという、それだけの話かもしれない。