書くこと(再考)

私にとって、書くことは結局「今」と向き合うことにしかならなくて、そこには過去も未来もない。思い返せば、中高時代の勉強でもそうだった。5年くらい書き続けていた日記でもそうだった。20冊分くらい真面目に書いてみた読書ノートでもそうだった。書くことは身体運動で、「今」のこと。「今」の補助。

だから、書いた後に残ったものへの執着がゼロ。もう、直後からゼロになる。紙だったら捨てられて構わないし、データだったら消去されても構わない。作品やログとして残して再利用したり推敲したりヒントにしたりということは必要ない。むしろ積み重なっていくのが嫌だ。

じゃあ書くことは無駄で、しなくていいかというと、どうやらそうでもないような気がしてきた。再び。最近ずっとこれの繰り返しだ。

書くこと=ログ、蓄積 みたいなイメージにずっと囚われていたんだけど、トイレで出したら流すみたいに、書いたらすぐ捨てていいんだな。

手書きが大好きだから、また紙のノート買ってみようと思う。

大いなる外部でもピュシスでも何でもいいけど、とりあえず、いつどこに何が存在しようとも変わらずに実在する「世界」のようなものはあって、その「世界」は一と多が互いに包み包まれながら在って、「”私の”世界」みたいに誰かが所有することはできない。所有しようとした時点で「世界」は狭くなる。逃げる。つまらなくなる。

 

ソートイ『素数の音楽』を、少し時間をかけて読んだ。

素数の音楽 (新潮文庫)

素数の音楽 (新潮文庫)

 

数学が見ている「世界」がどんな風景なのか、それが音楽や物理学とどうリンクしているのか、理解できた。

「世界」を表現する手段として、「数」はかなり優秀なのではないか。人間が話している言葉よりも、動物が発する鳴き声よりも、なによりも先に数はあって、数の発見って人類の歴史の中でも非常に重要なポイントなんだと腑に落ちた。

虚数の発見は、世界の表と裏の発見だと思う。だとしたら、世界は果たして表と裏だけなんだろうか。画期的な数が新たに発見されて、飛躍的に解像度が上がる時がくるかもしれない。リーマン予想がいつ証明されるか誰にも分からないみたいに、そういうことも誰にも分からない。

 

神はいない。だからおもしろい。

思考の欠片

この世界には何があって、何がないのか。自分が死んだら何がなくなって、何が残るのか。人と人、生物と生物、物と物etc…どんな組み合わせでもいいけど、それらがどう繋がってどう存在しているのか。なぜ世の中にはうまくいかないことがあるのか(「うまくいく」ってどういうことか)。そういうことが、少しずつはっきりと見えてくるようになった。そして、見えていなかった過去の自分がもう信じられなくて、別人のような気がする。

 

この世界には、どんな数を入れても成り立つ美しい方程式がありそうだ。そして自分は、数になったり方程式になったり、それを解く主体になったりする。その時によって「自分」のスケールも変わる。変化を実感できると楽しい。これ以上に美しい方程式が、この先の世界で出てくるとは思えない。今の私には思えない。

 

言葉が全てで、言葉が自分を作り、世界を作ると思っていた。そうではなかった。言葉は手段の一つだ。だからもう、一生懸命に書こうとしなくていい。言葉にしようとしなくていい。歌いたい時は歌えばいいし、描きたい時は描けばいいし、歩きたい時は歩けばいいし、眠りたい時は眠ればいい。言葉にすることとそれらは、同じことだと今は思う。

 

様々なものが通過するたびに変容していく自分のこの身体で、自分と一緒に遊びたい。

家具家電と言葉

引っ越しを機に、家電や家具が何もない状態から1つずつ買い揃えることになり、「言葉を選んで使うことと似てるなぁ」と思った。

理想は、長期的に1箇所に定住せずに、草原とか森とか荒野みたいな中で狩猟採集しながら暮らすことだけど、現実には住所があって、ある程度の家具家電を揃えて配置して、それに合わせて物を所有して使って暮らさなきゃいけない。

言葉も、理想はいらないんだけど、現実には選んで使っていかなきゃいけない。例えば「意味」「愛」「本質」みたいな大きい言葉って、自分の中で定義しちゃうとそれに付随する言葉たちもそれに引っ張られてしまいがち。

家具家電も言葉も、一度これと決めて選んで配置すると、結構それにスタイルを決められて縛られることになる。良くも悪くも。あまりにもまっさらだと不便なんだとは思うけど、無意識にスタイルを決められて縛られるってもっと嫌だな。

 

ということで、家具家電も言葉も、一度スタイルを決めて落ち着いていても、ずっと同じように使い続けるというよりは、少しずつ使い方を変えながら自分自身も変えていきたい。自分自身の変化に合わせて周りも変えていく、という言い方もできる。

AIについての講演を聴いて思ったこと

白か黒かというデジタルな選択・決断をしないと動かないのは生物らしくないと思う。「変わるのが当たり前」「どっちか分からない」が本来は自然で、その中で傷ついたり死んだりするのも自然なことなのに、人間は何でもかんでも未然にAはBだとか白か黒かとか決めておいて、不安や危険を「防ごう」とか「避けよう」とかしようとする。「今、我が身に降りかかったらどうするか」の方が大事な問題だと思うんだけどな。

人間以外の動物は、基本的に「これだけはやっとこう」みたいなシンプルで最低限のルールだけで動いてるからいいよね。人間だって「食べて寝よう」くらいでよくない?だめ?

法律、規則、ルールなんかって本当に必要なのかなぁ?一旦全部なくしてめちゃめちゃにした方が、世の中よくなるんじゃないかと本気で思う。自分が死ぬ可能性も高くなるかもしれないけど、私はもうだいぶ覚悟が決まっているので、死んでしまったらその時はその時で仕方ないと思える。死ぬ直前で「死にたくねぇぇぇぇ」と強烈に思うだろうけどそれも織り込み済み。

世の中の様々な争いや対立やいざこざを見ていると、ちっぽけで無駄な消耗戦が多いなぁと思う。そんなことに頭や体や時間使うのもったいないよ。テロや殺人事件なんかの方がよっぽど自然でいいなと思っちゃう。テロも殺人も、平成時代の日本人としては「許すことはできない」って言うしかないけど、自分が神だったら「人間たちよ、それでいいのだ」って言うなぁ。

 

それぞれの個体に本能的に決まっていることは多分あって、それだけでいいはずなんだ。

決意新たに 書き方3種

アウトプットという行為(特に文章を書くこと)に価値を見出せなくなっていたここ数ヶ月間だったが、「やっぱり形にしないと意味がない」に戻ってきた。日曜日の夜、奥野克巳先生とおしゃべりした時にこれは確信に変わった。「ですよね、やっぱ書かないとダメですよね」ってハッキリと口にした自分がいた。

脳内でいくら考えを巡らせたりまとめたりしても、脳は最強のブラックボックスなので、以後どうなってしまうか分からない。明日の朝には消えてしまっていることもしょっちゅう。信用ならない。なので書いた方がいい。

じゃぁどうやって書くか?何で書くか?これはもう少し考え続けたいところ。手段としては、①パソコン(長文)、②スマホツイッターで短文)、③手書き(長さ色々)、の3通りがある。今は全部やっている。

①パソコンと③手書きは、アウトプットのスピードは全然違うけど、黙読で読み返した時の読みやすさは不思議とかなり近いように思う。自分に話しかけるように書いているからかな。スイーッと頭に入ってくる。逆に、②スマホで書いた文章は、読み返した時に不満を感じることが多い。ツイッターで140字に凝縮しようとするあまり濃度が不自然に高くなっていたり、人目が気になって素直に書けていなかったりする。やっぱりフォロワーとかいいねとか、向いてないんだな私。でもツイッターツイッターの役割があるので、上手く使い分けていきたい。

③手書きは本当に楽しい。改めて、字を書くのが大好き。しかも日記だったら何を書いても誰にも何も言われない。最近はApple pencilでiPadにばかり書いていたけど、しまいこんでいたノートを出してきて、またちょっとずつペンで書き始めた。やはり性に合っている。

 

周りにはアウトプットがとても上手な人がたくさんいて、私はなんでこんな平凡なことしか書けないんだろうって思うこともあるけど、それと同時に「他人の書いたものは本当は全部どうでもいい」とも思っている。自分の身体の中で生まれ、濾過し、抽出した言葉にしかない魂が絶対にある。他人の真似しても意味がない。

みんなそうやって書いているんだ。それが他者の心に響くかどうかってのは、また別の話だ。

生命のつくりと流れ

脳、身体、意識、心、遺伝子、は分けて考えること。

感覚、経験、言葉、音楽などは、それらの間に存在し、それらを繋いだり離したりする。

魂の正体はまだよく分からない。

 

何冊か本を読んで書いているうちに、そんなところまでは見えてきた。

 

意識の進化的起源: カンブリア爆発で心は生まれた

意識の進化的起源: カンブリア爆発で心は生まれた

 
ダンゴムシに心はあるのか (PHPサイエンス・ワールド新書)

ダンゴムシに心はあるのか (PHPサイエンス・ワールド新書)

 
生存する意識

生存する意識