ツイッターとインスタやめたら調子がいい。主治医にも「ツイッターやめたのがよかったね」と言われる始末。メリットよりもデメリットが大きすぎたみたい。私には不向きなツールだった(初期のツイッターはよかったんだろうけど、ここ数年でおかしくなっていた)。そして前のブログ「本を読んで考えたこと」も、月に1回くらいしか書いてないのに読者が11人もついていて、スターも時々ついて、毎日10前後のアクセスあるのがなんか落ち着かなくてやめてしまった。

 心のどこかに「注目されたい」「認められたい」という気持ちはある。ゼロと言ったら嘘になる。でも私の場合それは不特定多数からではなくて、「自分が狙った人や望んだ人」という条件付き。つまり名前があって個人的つながりのある人たち。で、よくよく考えてみると、それって私が何をやっても見ていてくれるし認めてくれる人たち。2、3人かもしれないけど、もうその2、3人だけいてくれれば私の承認欲求は満たされる。究極は、その人たちが死んでしまっても、「見ていてくれた、認めてくれた」という思い出だけで十分な感じ。と突き詰めていくと、結局は「自分が自分を見つめて認めていればそれでいい」となるのかなぁ。だから、フォロワー数やいいね数がいちいち目に入ってきて、逐一リプライが飛んでくるようなSNSの環境がどんどん負担になっていってしまった。オーディエンスを選ぶ贅沢ができないというか。気にしなくていいことを気にしない鈍感力が私には欠如しているので。

 やめてビックリしたのは、自分の生活内容が何も変わらなかったことと、さらに生活時間が増えたこと。毎日ツイッターとインスタで1、2時間は使ってたんだからそりゃ増えるわな。本をたくさん読めるし映画も観れる。そして好きな人とだけ連絡とったり会ったりできるようになった。

 新たな出会いを作りづらいかな〜とは少し思う。面白そうな人を発見してアプローチしていく楽しみはなくなった。でも多分、今の調子で何かしら毎日紡いでいれば、「はてしない日記」がどんどん私らしい色彩を帯びていくだろうから、それを懐に入れて、イベントや訪問やメールなんかでいくらでも脈を広げていけると思う。それはまた機が熟したらの話。

 

 今日は今福先生の『パルティータ』シリーズIIを読み終えた。群島という概念。海の上では離れているけど海底ではつながっている。そもそも同じ火山活動から生まれたりしている。すぐ向こうに見えるくらい近くにあるのに、同時に離れている。ダーウィンの脳内がスパークしたガラパゴスも、ジョイスが言葉の渦を膨らませ続けたアイルランドも、私の暮らす日本も、大陸ではなく島である。波、風、生物の営みから影響を受けてその姿を刻一刻と変化させながらも、「島」という安定した大きさを保っている。もし島に目があったら、「一点を見据えているようで、ぼーっと遠くを眺めているようでもある」ってイメージ。海が母なら、島は父だなぁ。

 読者カードが挟まってたので、水声社に一筆書いた。猛烈に旅がしたいし、新しい言葉をしゃべりたい気分。寝たら忘れるんだけどね。