カフカ

保坂和志が『試行錯誤に漂う』の中でカフカの話をしていたので、積んでいた『カフカ・セレクション〈1〉時空/認知 (ちくま文庫)』を読んでみている。

これまで、誰の助けも借りずに自分の知識と感覚だけを頼りにカフカを読んでいたので、意味が分からないというか、何が分からないのかも分からないというか、つまりよく分からなかった。「カフカ的」とか言われる時の何がどうカフカなのか分からなかった。

で、保坂和志や平野嘉彦の解釈を読んだら分かるようになったかというと、分からないままなんだけど、分からなさの正体は分かってきた。私にとっては分からないままで正解なんだということも。


カフカは「書く」という運動をせずにはいられなかった。そして「思い通りに書く」ことが巧かった。先にイメージが頭の中にあってそれを目指して書くんではなくて、「思い通りに書く」ことで残ったものが作品。あらすじとか伝えたいこととか意味とか価値とか、小説に「ある」と思われてる諸々が、カフカの小説にはない。だから「書けない」こともない。

私にとっては、誰かに手紙を書くことがそれにあたる。書きたいし、書ける。いくらでも。電車で隣に座ってる知らない人にも書ける。目の前に紙とペンがあればすぐに書き出せる。

小説を書こうと思っても全くこんな風にはならないから、私は小説家には向いてないんじゃないかなぁ。小説という形式にとらわれてるだけかもしれないけど。


森山直太朗の歌に「夜の公園で渡すつもりのない手紙を書いている」という長いタイトルのがあって、私の人生はこれ(つまり渡すつもりのない手紙を書き続ける人生)だなぁと思ってるんだけど、小説をどんどん生み出せる人というのは、相手や目的が存在しなくても手紙を書き続けられる人なのかなぁ。日記だって自分という相手や記録という目的がある。

何もないのに、「書く」ことをやめられない。そうなったら小説が書けるかもしれない。