物語はその日のうちに

人間が人間として自然に生きることを考えています

さくら

森山直太朗のファンになって10年目になるが、一番好きな曲はと聞かれたら今は「さくら」と答える。「さくら」なんてドメジャーな有名曲、ファンならまず答えから外すだろうと思われるかもしれないが、今の私は堂々と「さくら」。10年目のガチファンが堂々と「さくら」。やはり名曲である。何なら、今でも1曲ローテーションしたりする。

 

世間では、森山直太朗といえばさくら。さくらの人。彼はこれまで「さくら」を人前で何百回、何千回と歌ってきており、近年はステージのリハーサルではあえて変顔したり変な声で歌ったりしてふざけないと、本番でしっかり力が出せないという。そのくらい、もう飽きるほど、うんざりするほど一緒に歩んできた歌で、それでもアイデンティティーを支えてくれている大切な歌で、今さら何を語ろうかって感じだと思う。本人にとってもファンにとっても。

 

メロディーとか、曲が持つメッセージとかに関しての一般論的なことは、発売以降いろんなところで死ぬほど語られてきたし、私も改めて語るつもりはない。ただ、1つだけ、個人的な思いとして引っかかり続けていることがあって、これだけは何年聴き続けても拭えそうにない。そしてたびたび言葉にしたくなる。

 

 

2番のAメロ

「今なら言えるだろうか 偽りのない言葉 輝ける君の未来を 願う本当の言葉」

 

ここが、何度聴いてもじんわり沁みる。

思い出すのは小学校の卒業式と、高校の卒業式。※中学の卒業式は、中高一貫だったのであってないようなものだった

 

卒業式と言えば、それまでを振り返って懐かしんで、泣きながら別れを惜しむというイメージがあり、小学校でも高校でも、その通りの光景が広がっていた。友人たちも式典の雰囲気も、イメージ通り。私もその空気に染まろうとしながらも、心のどこかに「なんでこの人たちはこんなに泣けるんだ」「未練など全くないし、むしろ新たな門出の楽しみの方が大きい」「一生会えないわけじゃないし」みたいな冷めた思いがあって、小学校でも高校でも涙は出なかった。

 

で、10年以上経った今、改めて聴く「さくら」2番のAメロ。

 

なんか当時はただ斜に構えていただけで、本当はみんなと一緒に素直に懐かしんで別れを惜しんで、わんわん泣きたかったんじゃないかと思う。当時の自分への疑いが晴れない。それでずっと「さくら」を聴き続けてしまう。

 

今、当時の同級生たちを思い浮かべると、「輝ける君の未来を願う本当の言葉」が生まれてくるのだ。今なら言える。当時はその場に合わせて社交辞令というかテンプレートというか、卒業っぽい言葉を色々並べてやり過ごしていたと思うんだけど、今なら言えるんだよなぁ。なんで当時は「本当の言葉」にならなかったんだろう。未熟だったんだなぁ。

 

って、引っかかっているのです。後悔というほどではないけど、「さくら」が思い出させてくれる等身大の自分みたいなものがある(斜に構えたり背伸びしたり偽ったり飾ったりしない、そのまんまの自分、ってものがあるとしたら)。咲き誇って、舞い落ちて、舞い上がる、という桜の輪廻が、私自身の思い出も毎年生まれ変わらせてくれる感じがする。

 

言わずもがな直太朗の歌声はもはや楽器なので、それと私の個人的な想いが絡まり合って、今一番好きな曲は誰が何と言おうと「さくら」です。直太朗にはぜひ、「もう聞き飽きたでしょ」とか思わず、いつまでもいつまでも、ここぞというステージでは堂々と「さくら」を歌い続けてほしい。