物語はその日のうちに

人間が人間として自然に生きることを考えています

続 愛

昨日の続きで、「愛」って本来は見えないどころか存在しないものなんじゃないかと疑いはじめている。それを言ったら「恋」も「希望」も「幸福」もみんなそうなんだけど、「愛」が特に乱暴だなぁと思うのは、自分一人だけでは完結しないような複雑な感情、思いである場合もあるのに、そういう時にもそれが「愛」であると言い切ってしまうこと。


「恋」「希望」「幸福」なんかは、相手とか周りの状況とかに関わらず、自分が「これは恋/希望/幸福である」と主張すれば周りは認めることができる。「愛」は違う。例えば「こんなに愛しているのに」と言ってしまうケースは、自分一人で完結していないことの表れだと思う。多分そこにあるのは「愛」ではなく「欲」とか「願望」とかなんだけど、自分が「愛」だと信じたいがために「愛している」とか言ってみて、でも相手が同じように愛してくれていないから「愛がない」と嘆くことになる。


最近は、「愛」というのは個体同士の間に成り立つものというよりは、漠然と漂っている空気のようなものなんじゃないかと思っている。私からあなた(またはあなたから私)への矢印ではなく、「私が(あなたといる時に)纏っている空気」みたいな。しかも、それは当事者だけが独占するのではなく、周囲と共有できる空気。自分一人しかそこにいなくても纏える。だから街中で見つめ合ってるカップルの周りに漂っているやつじゃなくて(あれは独占されてるので単なる「メラメラ燃え上がっている恋」みたいなものかな)、楽しそうな家族とか、リラックスしている動物とかから感じる雰囲気。オーラ。あれが私が感じる「愛」に近い。

 

でも、それすら本当は存在しないのかもしれない。なくても困らない。


自分と、自分が好きな対象や所有したい対象との繋がりを確かなものにしたくて「愛」という概念が生まれただけで、実際はそんなものないと信じてた方が自由だし楽でいられる気がする。

これまで数々の芸術作品で描かれてきた男女や親子間の「愛」は、「愛」という名の別のものだと思うと、もう愛ってなんだとか真実の愛とか純愛とか考えなくて済む。


私が今年に入ってから漠然と考えているのは、そういうこと。