物語はその日のうちに

人間が人間として自然に生きることを考えています

リング 実在(存在?)

映画『呪怨』をスクリーンで観た。いきなり霊が出てくるので生理現象的にビビるだけで、心理的な恐怖はゼロに近かった。やっぱり『リング』は怖かったよなぁ〜と思い出し、なぜあれがあんなに怖かったのかを考えた。

①リングでは、呪われる理由が明確にされないまま進む

ホラーでありがちな設定が、「死んだ人の祟り」とか「怨念」とか、割と個人的な思いが誰かを呪ったり殺したりするというもの。呪怨もそうだった。リングの場合は、呪いのビデオを観ただけだとそれがわからない。昔の新聞記事(どこかで事故があったようだ…)の文字が浮遊していたり、古い家屋で謎の女性が鏡を見ながらフフン〜♪と髪をとかしていたり(たしか視聴者には見えない"何か"に気づいて振り返る)、いきなりただの井戸が映っていたり。初めて観たときは「え?これなんなの?これが呪いなの?なんの意味があるの?なんでこれを見たら死ぬの?」と断片の意味が全くわからず、それが不気味さを助長していた。貞子だって意外と終盤まで出てこないし。

②リングでは現実的なアイテムが引き金になっている

単に死んだ人の未練とか怨念とかだったら、自分が信じなければ見えないし存在しない、で済まされる。関わらないで済む。映画を見終わったら全ておしまい。でもリングではビデオやテレビというどこの家にもあるような物がヤバかったわけで。しかもそれを見た直後に必ず電話が鳴るという。映画を見終わっても物語が続いているような気分になる。そういう意味では『着信アリ』も今観てもちょっと怖いかもしれない。まぁリングも結局は貞子という個人の人生が鍵だから、貞子を「実在しない」と信じられれば全く怖くはないんだけど。でもいくら信じていなくても、ビデオ見た直後に電話が鳴っちゃったら信じざるを得なくなると思う。

 

ここまで考えると、なるほど「実在」って大事なポイントだなと気づく。人が「怖い」と感じるのは、おそらく「実在しない」と信じていたものが「実在する」と実感できてしまう時。ホラー映画に限らず、誰かが自分を狙っているとか、誰かが殺されそうになっているとか、自分の世界では到底起こり得ないだろうと思っていることが目の前で起こってしまうと、恐怖を感じると思う。いくら愛する人であっても、死んだはずなのにいきなり目の前に現れたら怖い。ふとした瞬間に「もしかしたら今ベッドの下に知らない人が息を潜めているかもしれない」と想像して信じてしまうと怖い。子どもの頃はいちいち色んなことが怖かったのに、大人になって怖くなくなるのは、「実在しない」ということにできるから。信じられるから。心理的な防御みたいなもの。たまに「私よく霊が見えるんですよ〜」とケロッとして言う人いるけど、全然怖がってなさそうなのは、「実在する」と信じているから(?)なのか。怖さって「実在しない」から「実在する」へのギャップが生むんじゃないか。

 

最近まで自分の中では「霊は実在しない。終わり。」だったんだけど、信じている人の中には実在しているという事実を否定できないことに気づいた。環世界の問題。そう考えたら神もそうだよな。「私は実在しないと信じている。あなたは実在すると信じている。じゃぁ本当はどっちなの?」という問題は、そんな簡単に解決できないようだ。科学やアートの力だけじゃ無理なのだ。でも「私」と「あなた」を両方包めるような場所に立つやり方が他にあって、そこに立てる人と立てない人がいるようだということは分かっている。

もう少し色々本を読んでみる。

 

※存在と実在の違いを考えるとこんがらがってくる。そこは「実在」じゃなく「存在」を使うべきだろう、って箇所があるかもしれない。