物語はその日のうちに

人間が人間として自然に生きることを考えています

ホロコーストが好きと言うと語弊があるけれども

私が中学生くらいからずっとホロコーストに興味を持ち続けている理由が、自分でもよくわかってなかったんだけど、「普通の場所」(≒生)と「死に限りなく近い場所」(≒死)が紙一重にあるというその異常さ(だけど本当は異常ではなく誰にでもあてはまること)に惹かれているのかもしれない。日常生活を送っていたらいきなり強制連行されて収容所に送られて殺されるとか、収容所に入れられて死ぬかと思ったけど特別な職業だったお陰で待遇が良くて案外苦労のない生活を送っていたとか、ドイツが降伏してそれまでの地獄から解放されて安穏な生活に戻れたとか、どの体験をとっても、普通の人が体験しようがない異様なスパン(数日、数週間、数ヶ月単位)で「生」と「死」の境をうろうろさせられている感じがする。まともな感覚で対応していたら頭がおかしくなりそうなのに、ユダヤ人たちは全員がパニックになって動けなくなるわけでもなく、淡々と自己を押しつぶし、死ぬ人は死んでいって、生き延びた人は生き延びた。理性の力を搾り出していた。何百万人もの集団が、一斉にそうさせられた。

 

誰だっていつ事故や災害に遭うか分からないとか、いつ心臓発作を起こすか分からないとか、学校なんかではよく戒められてきたけど、やっぱり「死と隣り合わせ」を常に実感しているというのは平和な国に暮らしている限りは難しい。良く言えば危機管理能力が高い、悪く言えば心配しすぎ、みたいになってしまう。日常生活の妨げになる。子どもだった私にとって、ホロコーストは、「死」がすぐ隣に付きまとっている感覚を日本に暮らしながらイメージするのにとても役立った。大人になった今でも変わらない。

しかも、”頭が良かった”人や”まともだった”人まで虐殺に加担していたという事実がある。正しいと思い込んでやっていたという。これもまた好奇心をそそられるというか、「何か自分の理解を超えたパワーがどこかにあるな」という勘が働いて、「生」と「死」の距離感がまたここで揺らぐ。善悪の概念も揺らぐ。

 

誰が悪いとか、何が原因だとかが問題ではない。ただ何百万人もの人(ドイツ人もユダヤ人も、その他大勢の巻き込まれた人も)が、生と死の間を往来して、翻弄されたということ。世界中でこれまでいくつもの争いがあって大量の人が死んでいったけど、ホロコーストの構造はやっぱり複雑怪奇で、自分の中でのゴールは見つかりそうにないなぁ。どう考えても異様。だから興味が尽きることがない。

ナチスが悪いに決まってるじゃん何言ってんの」とバッサリ言われたこともあったけど、そういう人には通じない話だなぁと思う次第。私の目はもっともっと深遠に向かって、どこかに焦点を合わせようと今も動き続けているのだ。

この世界の片隅に』が流行ったけど、あれも「死と隣り合わせの日常生活」が描かれていて、近いものがあるかも。当事者たちは恐怖におびえ続けているわけではなくて、意外と「普通」がそこにはある。そこに生まれる物語。私と同じ「普通」でも、彼らの「普通」はとてもとても切実じゃないですか。ホロコーストも、私の中ではそういうことなんだよなぁ。