「言葉の力」を誤解していたかもしれない

  言葉に文法的正しさはつきものだけど、文法的に正しい言葉を使うかどうかも結局は使う人に委ねられている。私がこれまでずっとずっとこだわり続けて生きてきた「言葉」って何なんだろうと根本的に考え直しているここ数日。

  いくら自分が最高で完璧な言葉を使って文章を紡いだつもりでも、受け手に伝わらないことなんてザラで(ていうかまず伝わらない)、最高で完璧なら伝わると信じてた自分、何だったんだろう。

  吉本隆明『言語にとって美とは何か』を読んでいるうちに、そんなことを思うようになって、私がこれまで言葉(外国語含む)とどう向き合ってきたかを振り返って、なんだか分からなかったことが分かって一本線でつながった気がした。これまで何百冊も小説を読んできたけど、全部“読めてなかった”と思ってしまうほど、大元から捉え方が変わった。

 

  外国語を勉強しようとすると、まず単語や文法。規則性とか、その例外とか。とにかく覚えろみたいな感じ。これが私は超苦手。嫌い。ほんのちょっと違うだけでバツにされて点数にならない。通じるのに!!!!!正しい文法使っても伝わらないのに、なんでそれでも正しさを要求されなきゃいけないんだ。むしろめちゃくちゃな文法でも、その人が伝えたいエッセンスが逆にはっきり見えて伝わりやすかったりするじゃん。正しくなくても、伝わればいい。エッセンスさえ伝われば、文法的正しさも文章の長さも語彙の豊富さも関係ない。

  じゃあこの「エッセンス」とは何かと考えると、これは「言葉以前のもの」と言うしかない。言葉は、「言葉以前」になかったものを作り出すんだと思っていたんだけど、そうじゃなくて、見えなかったものを見えるようにするだけだと思う。言葉がなくても、全てはある。言葉があってもなくても、世界は変わらないんじゃないか。

 

  もう少し先に進む。「言葉以前」には、私/自分の内にある「言葉以前」と、外にある「言葉以前」の2種類ある。例えば「愛」と言った時に、内と外で別々の「愛」がある。それを自分が言葉にして使う時には両方一緒にして「愛」と表現するしかない。人それぞれの中でこういう現象が起こっているわけだから、人と人がコミュニケーションを取ろうとするとすれ違いが生まれる。伝わらない。

  たまーーーに現れる「めちゃくちゃ言葉が通じる人」というのは、内と外どちらの「言葉以前」もわりとかぶっていて、どんな言葉を使おうがシンクロし合う、みたいな存在なんだと思う。

  そもそも、内と外というのは常にくっきり分かれているわけではなくて、行き来したりひっくり返ったりするはずなんだけど、どうもここが固くて動かない人が多い印象。外は外として、外のことばかりやり取りすると「社交辞令」とか「お付き合い」とかになり、逆に内は内で価値を置くと「本音トーク」とか「カウンセリング」とかになるのかな。そんな風に分けて考えるから、いつまで経っても窮屈なんじゃないかなぁ。

  私は、誰と話す時も分けてないつもりで、人によって「その場のノリ」と捉えたり「本音」と捉えたりするかもしれないけど、私はいつも同じ。流動的でありたい。常に異なる化学反応を起こせる創造的な人間でありたい。

 

  本を読むことは、著者の内と外を自分と重ね合わせていく作業。外国語を勉強することは、「言葉以前」の存在を感じ、別の言葉でそれを見えるようにする作業。