物語はその日のうちに

人間が人間として自然に生きることを考えています

安定=静止ではない。動き続けること。

   京都賞シンポジウムにて、生命の細胞内で起こっている現象について、ミクロのスケールの説明を聞くことができた。登壇者は福岡伸一、森和俊、長田重一、大隅良典(敬称略)。ノーベル賞級の研究は、素人の私にも大変な刺激を与えてくれた。

   共通して設けられたテーマは「生命の神秘とバランス」。動的平衡。生命は、分解・破壊と合成・生産を繰り返しており、さらに言うなら、分解・破壊は合成・生産を先回りしている。方丈記の「かつ消え、かつ結びて」の部分はそこまできちんと表されていて秀逸である、と福岡先生。死ぬことが生まれることより先回っていて、うまく死ねなければうまく生まれることができない、生きることができない。これがあらゆる生命に共通して言えるということは、とても示唆的だ。

   私はその話を聞きながら、ゴミ屋敷に住んでいる人と行き過ぎたミニマリストを同時に思い浮かべた。彼らがアンバランスだと直感的に思うのは、どちらもうまく捨てられていないからだ。捨てすぎor捨てなすぎ。

   でも、本当にアンバランスなのか??という疑問が。アンバランスであると定義できるとしたら、本人たちが「本当は捨てたいけど捨てられない」「捨てすぎてしまって生活しづらい」などと感じている瞬間だけだ。もし彼らが「これが一番心地よいのだ」と安定しているんだったら、バランスはとれている。まぁ、その静止状態のままバランスを維持することは絶対に無理で、エントロピーは増大する。抗う必要がある。それでまた否が応でも動くことになる。生きているので。

   では、どれくらい捨てればバランスが保たれるのか?ちょうどいいポイントはあるのか?それは、個に委ねられているとしか言いようがない。たとえ周りの1億の人間(細胞)が自分と違う動きをしていても、自分が安定ならそれでいいんだと思う。ただ、結果的にそれですぐに淘汰されてしまうかもしれない。でももしかしたら自分だけが生き残るかもしれない。起こる前には、誰にも分からない。生命が不思議でおもしろくてたまらないのはこういうことだ。

   生命をもっと知りたくて、現象を写真のように切り取って時間を止めてみても、動的平衡は見えない。じゃあパラパラ漫画のように繋げたり動画にしたりすれば見えるのかというと、どこまで延ばしたところで、無限から見ると瞬間でしかない。人間の日常生活や、せいぜい100年程度の寿命からすれば、現象を適当に切り取ったり繋げたり延ばしたりするだけで公式や法則っぽいものは見えてくるのかもしれないけど、生命はそれでコントロールできるほど単純で簡単なものじゃない。

   それでも生命は動き続けている。死と生を繰り返している。何十億年も。何もしようとしなくても勝手に動くようプログラムされている。

   私がこれまで考えてきた「フットワークの軽さ」とか「モチベーション」とか、最近よく言われる「多動力」とかって、ただひたすら動き回ればいいわけではないんだよな。それは確かだ。だってもともと動きまくってるんだから。生命の動きの本質を、もっと見極めなければならない。動くってなんなのか。どう動くべきなのか。ここはまだよく分かっていないところ。