物語はその日のうちに

人間が人間として自然に生きることを考えています

吉本隆明の心像論

  留学中に精神的におかしくなって強制帰国させられたのは、もう8年も前のことになる。帰国してからさらにひどくなって、一時は自宅に監禁状態だった。隔離病棟に入院レベルだったと思うけど、親が何とか自宅で療養させたいと頑張ってくれた。その頃、自分の脳内で何が起こっていたのか、年々そのイメージは曖昧になっていってるように思う。思い出したいことだけ思い出して、忘れていいことはどんどん忘れていってるような。客観的事実なんてのはもう自分自身にも他人にも掘り起こせないかもしれない。

  と、病気のことはずいぶん思い出として風化してきたというか、結晶として形になって動かないものになっていたんだけど、吉本隆明『心的現象論序説』を読んだら再び鮮やかに色を取り戻して、生々しく思い出せるようになった。当時の自分がすぐ隣にいてちょっと気持ち悪いくらい。

  あの頃は、猛烈に何かに追われているような感覚、突き動かされているような感覚が常にあった。「とにかく今の私はこれをやらなきゃいけない、使命なんだ」という切迫感があった。この時の状態を分かりやすく伝えるために、なんと映画『君の名は。』が役に立つ。映画の中で中心的キャラクターたちが確信を持って「隕石が落ちてくる!」と予言し、信じない大勢の人々に必死になって立ち向かうシーンがある。あれ。まさに8年前の私は、この時のキャラクターたちのような感じだった。危機感もまさに「自分が動かなきゃ地球が滅亡する」レベル。周りから見たら100%おかしい。なに言ってんだこいつは、と思われてるのは自覚しながらも、自分の正しさを絶対的に信じていた。吉本の言葉を借りれば、本来は自分と間接的に関わっているはずの対象をすべて直接的な関わりへと引き寄せてしまっていたので、私にとっては、世界のすべて(時間も空間も)が自分の手の中にあった。だから、ありえない予言も私の中では立派に成立していた。

  じゃあ、この引き寄せってなぜ起こるのか?薬を飲んで療養するうちに、なぜ引き寄せなくなるのか?(正常に戻るのか?)これは、医学を勉強したら分かるんだろうか。。説明できることなんだろうか。全容は私には分からないけれど、ひとつ言えることがある。肝は、いわゆる病的な状態にある人は「“すべてを”引き寄せてしまう」ところだと思う。程度の差はあれど、人は部分的には間接的事象を直接的事象に引き寄せて心像を描いている。意図的に。(パッと思いついた例は、アイドルのライブで「今、絶対に目が合っていた!」というやつ。)これが、自分の意志が働かない次元でありとあらゆるすべての事象において起こってしまうんだから、そりゃやばいわけだ。これが起きてしまった時の切迫感、危機感、緊張感、スピード感は、ぜひ体験してほしいとしか言いようがない。(断片的には今でも思い出せる。カロリーを猛烈な勢いで消費してる感じ。)”すべて=100%“というのはキーワードだと思う。

  では逆に、それが綺麗にひっくり返る”0%“の状態ってあるんだろうか。すべてが直接的関わりなのではなく、逆にすべてが間接的関わりになる状態。これは、多分、ある。100%の時のような病的な必然性、切迫感はないだろうけど、ある立場に立つことができれば、コントロールして0に近づけることはできると思う。病を通過した私自身も含めて、今、私が本当の意味で分かり合えると感じている人たちは、0%を想像したり体感したりできていると思う。

  今はここまでしか書くことができない。合っているかどうかも分からない。ただ、書いているうちに見えてきたことは、「一時的な状態」と「存在そのもの」は全く別物で、「病的な状態」と「病を抱えた存在」も別物であるということ。

  というわけで、次はアントナン・アルトー関連の本を読み返そうと思っている。