未来の見方

時間を形にして可視化して考えるとして、わかりやすいのはパラパラ漫画。では、この世界がパラパラ漫画だとすると、次の1ページがどうなるかは、いつどうやって決まるのか?

福岡伸一は、このパラパラ漫画のページに「厚みがある」とした。そしてページとページの端が少しずつ重なっていると。それで考えると、次の1ページが全く別の場面になることは考えにくく、SFで描かれるような瞬間移動も現実的ではないことが簡単にイメージできる。ページとページは、どこかできちんと連続している(①)。でも、いくら端が少し重なっているとはいえ、どの方向に動いていくかは、多数の要素が絡み合って決まるので、事前に予言することは不可能である(②)。

 

「何事も経験しないと分からない」とよく言われる。未経験者を見下したり揶揄したりする時にも使われる。確かに間違いではないので、「やってみたい」というモチベーション(原動力)になるし、実際に経験した後は達成感に包まれたり誇らしくなったりする。

ただ、経験した者でないとそのことについて本当に理解したとは言えない、語る資格を得られない、となると少し話がおかしい。そんなことを言ったら、経験の種類や長さだけで優劣や説得力が決まることになる。何なら生まれた国や家庭が全てを決めることになる。そんなはずはない。でも、「経験してない癖にわかったような口を聞くな」と感じることがあるのも確かで、こういう感覚はどこから生まれるのだろう?

 

そこでパラパラ漫画の話に戻って考えると、経験云々を語る時には、①連続性と②予測不可能性の両方を腑に落としておくことが大事なんじゃないかと思う。しかも②予測不可能というのを、暗闇で前が見えないようなネガティブな性質として捉えるのではなく、明るく照らされた道が無限に用意されているといういわば”超ポジティブ”に捉えることが大事。

たとえ経験していなくても、今自分が立っている時空の余白や余韻をもとにして(パラパラ漫画の重なったページ部分をもとにして)、「どこへでも行ける、行く可能性がある」と身体を構えておくことはできる。「これをしたらこうなるに違いない」とか、「こうなるはずがない」とか、勝手に可動域を制限しないこと。でも同時に「重なりの部分」も無視しないこと。土台も必要なので。

 

もちろん、経験できることはした方がいい。でも経験がすべてじゃない。身体の構えがなってない(腑に落ちてない)状態でむやみに経験だけを重ねるよりは、毎日の食事や入浴などルーティンワークをこなす中でフォームを鍛える方がよほど大事だと思う。

上妻世海の制作論と、こういうところから繋げていけばいいのかな。