物語はその日のうちに

人間が人間として自然に生きることを考えています

宗教性と、それに対するリスペクト

イスラエル、ヨルダン、アラブ首長国連邦を1週間旅して、ユダヤ教キリスト教イスラム教文化が混在する世界をウロウロした。

その後色々考えてみて分かったことは、まず大前提として、それぞれの信者の中にも多種多様な信仰や解釈を持つ人たちがいるから、「ユダヤ教(徒)」「イスラム教(徒)」と巨大な概念を主体として思考することは私にとってあまり意味がないということ。中高生の頃からひたすらそのパターンで物事を考えさせられてきたけど、私が探しているものはそこにはないとはっきり分かった。

それよりも、どんな宗教、宗派にも「リスペクトできる人」と「リスペクトできない人」がいて、自分が抱くそのリスペクトはどこから来るのかということに興味がわいた。結局のところ、「自己研鑽し続けているかどうか」だと思う。生まれながらに特定の信仰を持つことを決められている人もいれば、人生のどこかで自ら信仰し始める人もいるけど、そういう時期や時間の長さは関係ない。自分自身の信仰心や、宗派の宗教性みたいなものを、常に疑い続け、その度に解釈し直して、自分含めた世界を更新し続ける姿勢が大事。

エルサレムで暮らす、正統派ユダヤ教徒の人たちとすれ違いながら、この人たちは毎日めちゃくちゃ頑張ってるんだろうなと思った(語彙がアレだし非常に単純思考なのは承知)。真面目にイスラム教徒やろうと思ったらそれも凄まじい生活になる。山寺に篭るお坊さんみたいな。旅先ですれ違った現地の宗教的ピープルの中で、果たしてそういう自己研鑽型の暮らしをしてる人がどれくらいいるんだろうなと思いを馳せた。

厳しい宗教があると、それに対抗するように甘い宗教を唱える人が出てくる。これは生き方でも働き方でも何でもそう。糖質制限とかヨガとか筋トレとかオタクとか。「頑張らなくてもいい」という人が必ず出てきて、厳しさに疑問を持つ人たちがそちらに流れていく。でも一旦決めたんだったら、やっぱり突き詰めていかないと、だらしなく見える。外から見たらアホみたいに厳しい戒律でも、守ると決めて、この意味は何だとか神の意思はどうだとか考え続けている人たちを私は尊敬する。突き詰めた結果「何か違う」と思ったらやめてもいいと思う。まぁ仏教とかをそんな簡単に突き詰められるとは思わないけど。

 

日本はいわゆる「宗教」(キリスト教とかイスラム教とか)に身を浸してる人は少ないけど、特定の思想に対する信仰心みたいなものは他の国民と同じように皆持っていて(というかこれは人間なら誰でも持ち得るシンプルなものだと思う)、日々それと向き合いながら自分自身や周りの世界を疑い続けて更新し続ければ、自ずと友達ができる。リスペクトできる人も現れる。そうやって群れができていく。

根源的な思想や信仰と並行するように、混ぜ合わせるように、日常生活を送らなきゃいけないのは大変だけど、多くの人の世はそうやって回っているんだと思う。楽になれたらゴールなのかなぁ?それはまた別の話。