物語はその日のうちに

人間が人間として自然に生きることを考えています

 最近読んだ本の中に「環世界」というワードが出てきまくりなので、ユクスキュル動物の環境と内的世界読んでおいてよかったーと思いつつ、自分の中で「環世界」という概念が少しずつ育って変化しているのを感じる。

 環世界とは、「生物(種)ごとの感覚で捉えられているそれぞれの世界」 みたいに説明されることが多くて、「人間の環世界」「ミミズの環世界」「チーターの環世界」などと言われると何のためらいもなく受け入れられる。一応それで理解していた気になっていた。

 が、昨日ぼーっとしていたら突然、疑問が浮かんだ。環世界って、そんな簡単に種ごとに分けられるものなのか?例えば同じ人間でも、あなたの環世界と私の環世界はきっと違うし、私の昨日の環世界と私の今日の環世界も違う。「感覚で捉えられる世界」と一口に言っても、人間の感覚なんてちょっと無意識の影響を受けたら簡単に変わってしまう曖昧なものだし、その時の体調によっても感覚が鋭くなったり鈍くなったりするし、目の前の現象の捉え方は一通りなわけがない。「環世界」という言葉を目にした時の自分の反応が、少し慎重になった。

 

 そして少し話は飛んで、人間がとある環境の中に置かれた時に、周りのモノが持つまなざし(視点)と自分のまなざし(視点)が交錯したり同化したりして、互いの存在が多様化するみたいな話をこのところずっと考えている。ヒントになった本は、

・ヴィヴェイロス食人の形而上学: ポスト構造主義的人類学への道

岩田慶治木が人になり、人が木になる。―アニミズムと今日 (Cosmos and humanities selectio)

エドゥアルド・コーン森は考える――人間的なるものを超えた人類学

河野哲也境界の現象学: 始原の海から流体の存在論へ (筑摩選書)

・木村大治他動物と出会う〈1〉出会いの相互行為

など。この「まなざしが交錯したり同化したりして互いの存在が多様化する」現象が起こる条件みたいなのがあるんじゃないかと思う。ただ単に2つ以上のモノが同時に同空間に存在するだけで起こる現象ではない。それでその条件を考える時に「環世界」が使えるような気がしている。

 例えば、「私の環世界の中にあなたがいて、かつあなたの環世界の中にも私がいる」瞬間であるとか、「互いの感覚が研ぎ澄まされている」瞬間であるとか。ぼーっとしてたら起こらないような気がするもん。ただ、木の感覚が研ぎ澄まされるとか木がぼーっとするとかはどういう状態だ?と自分でも思うので、この辺はもっと言葉を探す必要がある。

 実体験として、「今わたし自然と一体になっている!」みたいな気持ちいい~~~瞬間や、動物をじっと眺めているうちに自分もその動物の一員になっている気分になる瞬間がある。小さい頃から何度も味わってきたこの感覚を、具体的な言葉で人にも分かるように伝えられるんだなというのが、ここ1、2年で色んな本を読んできた感想。