物語はその日のうちに

人間が人間として自然に生きることを考えています

平和とは

電車の中で、日本人とアメリカ人がほぼ初めましての感じで英語で喋っていたのを聞いていた。話題は、初期段階のジャパニーズ国際交流あるある「日本語と英語の違い」「日本語の難しいところ」だった。具体的には「日本語のオノマトペは外国人には難しい」「英語ではお腹が痛い時、お腹の中に蝶がいる、と表現する」など。

聞いていて、(そんなん誰と喋っても同じような会話になるだろ~つまんないだろ~もっと仲良くなりたいなら相手の個人的なこととか聞けばいいのに~)とか思ってたんだけど、なんかあまりにも和やかで楽しそうな雰囲気だったので、(あれ?これがもしかして平和そのものなんじゃ?これがみんなが目指すべき平和の姿では?)と思い始めた。

 

①前提として、2人は全く別の人間であるとお互いが認識している=相手と違うのは当たり前と思える

②それでも表面上は仲良くしようと繕う(内心では相手のことなんてどうでもいいと思ってるかもしれないけどそれでOK)

 

この2つが成り立っていた。

外国人相手の時だけじゃなくて、日本人同士の時でも、互いがこのスタンスでいることって結構大事なんじゃないか。背景に同じ文化や環境があると思いこむと、「話せば通じ合える」と思ってしまう。それが誤りだと気づいてはいたけど、具体的にどういう接し方がいいかは考えてなかった。「相手は外国人」と思えばいいわけだ。簡単なことだった。みんなできるんじゃないのこれ。

 

親友とか、大切な人とか、特別な人とか、どうしても近しい人の存在を感じられた方が安心なのかもしれないけど、究極は、人間同士はつながっていない。物理的にどうしてもつながっていない。分かり合うとかつながるとか一つになるとか、どっかから借りてきた理想に過ぎない。

一人で遊ぶ技術を磨く方が、ずっと合理的で生産的だと思う。

 

そういうことを思いながら、カフェで時間をつぶしている。