物語はその日のうちに

人間が人間として自然に生きることを考えています

レディ・プレイヤー1

映画『レディ・プレイヤー1』を観て、現実とバーチャルの境を見失わないことが知性とか教養とかいうものなのかなと、ふと思った。あるいは、どちらかに固執しない柔軟性というか。今(2018年)はまだそうだと言える。

どんなに精巧に作られていても、バーチャルの世界にとどまったまま食事、排泄、睡眠、入浴、生殖活動はできない。自分の体から離れて生きることはできない。これだけAIだのVRだの騒がれているけど、まだまだ私は信じることはできない。所詮、人間が生み出したものだから。

哲学的に考えると「世界」の存在すら不安定だけど、少なくとも、人間が絶滅しても生き続ける生命体はあるはずで(それを現実と呼ぶかは別として)、太陽も惑星も多分しばらくはあるはずで、信じるならそういうモノだなぁ。

自分以外の人間のことは誰も信じられない、というのは10年前くらいに行き着いて今も同じように考えている。じゃあ自分のことは信じられるかというと、そもそも「自分」という存在を感じられる瞬間の方が少ない。普段は、特に何も信じないで暮らしている。他人への信頼が揺らいだ時だけ都合よく相対的に「自分」を作ってるだけな気がする。

どんなに上手くバーチャルという居場所を作っても、精神的な移動しかできないわけだし、そこに安住しようとしても限界がある。かといって、バーチャル全否定というのもつまらない。これからの人生を、インターネットなしというのはさすがに無理があると思う。そこで考えたのが、現実とバーチャルのバランス。境界を飛び越えるのにいちいち労力を必要としない知性というかセンスというか。ほんっとこれで苦労してる人がうようよいるわけだから、自分はそうならないように頑張ろうと思った。

あえて「頑張る」という言葉を使った。今はまだ意識して気をつけないと、頭が痛くなったり肩が凝ったりしてしまうので(それはまた違う話か?)。頑張って、自然に生きられるようになりたい。