物語はその日のうちに

人間が人間として自然に生きることを考えています

時間の正体(あるとすれば)

  九鬼周造 時間論 他二篇 (岩波文庫)を読みながら考える。

  仏教の輪廻の考え方だと、時間は円の形で捉えられて、そこを魂がぐるぐる回り続ける。永遠とか無限とかが現れる。ここから解脱するためには、知性で時間そのものを否定するか、武士道という力技で時間を気にしない術を身につけるか、、という話なんだけど、とにかくやっぱり人間中心というか、人間が頭の中で考えているだけって感じがする。

  そもそも、永遠とか無限とかを表すのに、円形じゃないといけないのか?直線だって無限なのに、円が好まれる傾向にあると思う。果てしなさが捉えやすいからかな。直線だと、どこかで終わってるんじゃないかとか、切れてるんじゃないかとか想像できてしまう。それか、円は「同じところに戻ってくる」ということを表せるからか。でもねぇ、やっぱり生命の魂を円形に閉じ込めちゃうのはちょっと無理があると思うなぁ。そんなことしなければそもそも解脱とか悟りとか必要ないかもしれないよ。

  人は、「時間の正体」を探ろうとあれこれ考え続けているわけだけど、私は最近、時間の正体は分かってきた気がする。要は、様々な形が時間を可視化していて、それを捉える(見る)人がいて初めて時間が存在しはじめる。時間の正体は、突き詰めると「無」じゃないかなぁ。ない。ないのに「形」のせいであると思われている。人間が絶滅したら、時間を捉える生命体はなくなって、時間もなくなると思う。他の生物はただ「変化」を捉えてるだけのように見える。って、時間の概念を捉えられるのが人間だけの特権みたいに思うのは嫌だけど。でもそんな気がするな。「時間」の捉え方が、人間だけ歪んでるような。

  では、人間が絶滅して、いよいよ時間が存在しなくなったら、無限や永遠もなくなるのか?、、これはなくならない気がする。

  そもそも、「無限」「永遠」と「無」の関係がよく分からなくなってきている。なんか、ウワァーーーーーと同じことが永遠に無限に繰り返されているうちに、ポーンと別の場所にジャンプして(またはクルリとひっくり返って)「無」になる、みたいなイメージをよく知覚させられてきた気がするけど、かなり雑というか、そこの飛躍は冷静に考えるとよく分からない。繋がってるようで、近いようで、実は全くの別物じゃないかな。「無限」「永遠」は1の連続で、「無」は0なんだから。時間のことはとりあえず置いといて、次は「無」と「無限」に興味がわいてきた。