物語はその日のうちに

人間が人間として自然に生きることを考えています

複数(ひとつ)の世界がひとつ(複数)になる時に起こっていること

「鳥は視野が360度あるので、斜め後ろや真後ろの物も見える。人間はせいぜい190度。」これを本で読んだ時に、これまでだったら「鳥はすごいなぁ」で終わっていたんだけど、今回はちょっと違った。もちろん、自分は後ろが見えないのに鳥は見えていると思うと、単純にすごいし羨ましいんだけど、さらに先がある。

鳥がすごいというわけではない。人間が劣ってるわけではない。それぞれがそういう選択をしただけなんだ、ということ。鳥は鳥の世界を見て、鳥の世界を生きている。人間は人間の世界を見て、人間の世界を生きている。じゃあ「世界」って何?

鳥が「鳥である」時と、人間が「人間である」時。この2つの時がたとえ同時であっても、その状態の鳥と人は同じ世界には存在できない。「鳥でない」時と「人間でない」時でも同じ。鳥が「鳥でなく、鳥でなくもない」時と、人間が「人間でなく、人間でなくもない」時であれば、それは同じ世界に存在できる。その世界に存在するものは、もはや鳥とか人間とかではなくて、もっと細分化された物質と、視覚や聴覚や嗅覚などの感覚。 ※はじめにこう書いたけど、「還元主義的」と指摘をしてもらったので書き方を再考する必要あり。 

「私は私、あなたはあなた。互いに尊重し合いましょう。」だけじゃ世界はいつまで経っても1つにならないのだ。

 

 

※打ち消し線の部分

鳥と人間はそれぞれ個物として存在しているので、それを細胞や原子や分子に分割して「他と同一」としてしまう書き方はあまりにも乱暴だった。鳥と人間、それぞれに内部と外部があるけれど、内は外を包摂し、同時に外が内を包摂するということを考えていくと、内とか外とかいうマトリョーシカ的な階層がそもそも機能するのかという疑問がわく。(マトリョーシカを思い浮かべた瞬間「同時」が存在しなくなる、という感じがする)

清水高志先生のツイートがいつも導いてくれるので参考にしつつ、ここはまだまだ考えていかなきゃいけないところ。とにかく、「世界はひとつだ」とか「それぞれの世界だ」とか、これまで何の疑問も持たずにサラッと書いてきたことが、もうサラッと書けなくなっている。子どもや、初めて足を踏み入れた人(未踏の人)にも分かるように、物事を簡単な言葉で記述することが私の目標というか理想だけど、どうシンプルにしていけるのかも同時に考えていきたい。