物語はその日のうちに

人間が人間として自然に生きることを考えています

噴水

  ワルシャワのサスキ公園に、大きな噴水がある。噴水目当てで行ったわけではなく、単に(公園気持ちよさそうだな~)とふらっと入ったら、立派な噴水があったというだけ。そんなに長時間いるつもりはなかったのに、やけに惹かれてしまい、しばらくボーッと水を眺めていた。

 

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  写真にすると動きが止まってしまうのでもはや別物だが、ワシャーーーーーーッと大きめの音を立てながら、ひたすら吹き出しては落ちるだけのそれは、特別美しいわけでもなく、下品なわけでもなく、便利なわけでもない。水の動きが面白くて眺めているうちに、「で、結局これ、なんなんだ?」と不思議になってきた。

 

  私の中で「水」といえばまず自然物で、海の広さとか、川の流れとか、滝の勢いとか、雨や雪の冷たさとか、どれも自分でどうこうできるものじゃないと思っていた。ただ、そこにあるもの。変化し続けているもの。

  それに対して噴水は、完全に管理された人工物で、ひたすらその場で循環しているだけ。しかもわざわざエネルギーを使って自然の重力に逆らっている。富や権力を顕示するために、こんなことしようと考えるんだなぁと、ヨーロッパの人たちの感覚を新鮮に思った。時間とお金に余裕がある人たちの贅沢、娯楽なんだ。要は遊び。大人の水遊び。

 

  噴水、面白いじゃん!もっと見たい!となって、噴水公園にも行ってみた。


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  こちらは、吹き出す量、タイミング、強さを操作して、良い意味でふざけている感じ。ピューーーーーーン!ピヨピヨピヨピヨ、ピヨーーーーーン!みたいな。東京でここまでの規模の噴水は見たことなかったので、ここでもしばらく佇んでいた。

  水には形があるようでないようで。一瞬だけあらわれるその形を自分の目で捉えてはまた次の一瞬を捉え……という一瞬の連続を楽しんだ。波打ち際にいる時の気持ちと似ていたかも。

  これから日本でも噴水を見かけたら、注意して見てみようと思う。

 

ポーランド旅行記2)

周防大島物語

  ある、海と山に挟まれた小さな町に、翁が住んでいた。ある日、遠くから孫とその母親が遊びに来たので、一緒に海へ行くことにした。孫はもうすぐ2歳になる。

  孫と並んで歩いていたが、母親を求めて引き返してしまった。後ろ姿をたしかに見たと思ったが、孫はそのまま消えてしまった。

  家族みんなで探しても探しても、孫は出てこなかった。そのうち町の者が集まってきて、みんなで探した。ある者は、誰かに連れ去られたと言った。またある者は、鷹に捕って食われたと言った。2日経っても出てこないので、もうどこかで死んでいると思われた。

  翌朝、山の向こうから、見たこともない男がやってきた。男は、お前の孫がどこにいるか分かると言った。孫はまだ生きていると言った。そして山を登りはじめた。名前を呼びながらしばらく行くと、孫が「おーい、ここだ」と応えた。孫は苔のむした岩の上に座っていた。飴をやると、そのまま噛んで食べた。男は孫を抱いて、翁と母親に返した。みんな喜んだ。死んだと言った者は、たいそう驚いた。

  男は、初めてこの町に来たそうである。子をこの世に引きとめたので、崇められ、感謝された。祝いの宴が終わると、自分の国へ帰って行った。

今、好きだということ

  その人が生きているうちは、その人の制作したものよりも、その人の存在や生の形そのものに興味がわくし、知りたいと思う。亡くなってしまったら、仕方なく生前のそれを追い求めるようにして、制作したものを見たり聞いたりするのかもしれない。

  私が好奇心をそそられる人やものを思い返すと、ことごとくこれが当てはまるので、本当っぽい。

  生きてるうちは、なるべく会って直接関わりたいなぁ。声を聞きたいし、動くのを見たい。触りたくなったら触ってみたいし。温度やにおいも感じてみたい。その人自身と、周りと、両方を。そしてそこに自分も身を置くことで、自分自身を作りかえる。作品だけじゃこれをするには足りないんだよな。

  もう存在しないなら、生前の姿を想像し放題というのはあるけど。でもそれってちょっと暴力っぽいな。身勝手というか。

 

  互いがせいぜい100年しか生きられなくて、そのうちシンクロするのはごく僅かだと思うと、同時期を生きてるだけで貴重だし、逃せない。逃したくない。

 

アウシュヴィッツ=ビルケナウ

   ビルケナウは広かった。あまりにも広かった。果てしなかった。こんなに開けた空と平地は、未だかつて見たことがなかった。やけに殺風景だけど、平穏で静かな場所だった。太陽が熱かった。

  ホロコーストは、幼い私の中で生まれたモンスターのようなもので、細胞分裂を繰り返して成長しつづけていた。どこまで大きくなるのか自分にも分からないまま、無理やり心の中に閉じ込めていた。

  それを解放して、本来の居場所に返してこれたような気がする。これからは、自分とは切り離された場所で生かしておける。もう私がしなきゃいけないことはない。どうなっても構わない。

  これから何百年、何千年、何万年と経って、資料も残骸も人間の記憶も全部が消えてしまったとしても、なくならないものは確かにあると思った。

 

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ポーランド旅行記 1)

吉本隆明の心像論

  留学中に精神的におかしくなって強制帰国させられたのは、もう8年も前のことになる。帰国してからさらにひどくなって、一時は自宅に監禁状態だった。隔離病棟に入院レベルだったと思うけど、親が何とか自宅で療養させたいと頑張ってくれた。その頃、自分の脳内で何が起こっていたのか、年々そのイメージは曖昧になっていってるように思う。思い出したいことだけ思い出して、忘れていいことはどんどん忘れていってるような。客観的事実なんてのはもう自分自身にも他人にも掘り起こせないかもしれない。

  と、病気のことはずいぶん思い出として風化してきたというか、結晶として形になって動かないものになっていたんだけど、吉本隆明『心的現象論序説』を読んだら再び鮮やかに色を取り戻して、生々しく思い出せるようになった。当時の自分がすぐ隣にいてちょっと気持ち悪いくらい。

  あの頃は、猛烈に何かに追われているような感覚、突き動かされているような感覚が常にあった。「とにかく今の私はこれをやらなきゃいけない、使命なんだ」という切迫感があった。この時の状態を分かりやすく伝えるために、なんと映画『君の名は。』が役に立つ。映画の中で中心的キャラクターたちが確信を持って「隕石が落ちてくる!」と予言し、信じない大勢の人々に必死になって立ち向かうシーンがある。あれ。まさに8年前の私は、この時のキャラクターたちのような感じだった。危機感もまさに「自分が動かなきゃ地球が滅亡する」レベル。周りから見たら100%おかしい。なに言ってんだこいつは、と思われてるのは自覚しながらも、自分の正しさを絶対的に信じていた。吉本の言葉を借りれば、本来は自分と間接的に関わっているはずの対象をすべて直接的な関わりへと引き寄せてしまっていたので、私にとっては、世界のすべて(時間も空間も)が自分の手の中にあった。だから、ありえない予言も私の中では立派に成立していた。

  じゃあ、この引き寄せってなぜ起こるのか?薬を飲んで療養するうちに、なぜ引き寄せなくなるのか?(正常に戻るのか?)これは、医学を勉強したら分かるんだろうか。。説明できることなんだろうか。全容は私には分からないけれど、ひとつ言えることがある。肝は、いわゆる病的な状態にある人は「“すべてを”引き寄せてしまう」ところだと思う。程度の差はあれど、人は部分的には間接的事象を直接的事象に引き寄せて心像を描いている。意図的に。(パッと思いついた例は、アイドルのライブで「今、絶対に目が合っていた!」というやつ。)これが、自分の意志が働かない次元でありとあらゆるすべての事象において起こってしまうんだから、そりゃやばいわけだ。これが起きてしまった時の切迫感、危機感、緊張感、スピード感は、ぜひ体験してほしいとしか言いようがない。(断片的には今でも思い出せる。カロリーを猛烈な勢いで消費してる感じ。)”すべて=100%“というのはキーワードだと思う。

  では逆に、それが綺麗にひっくり返る”0%“の状態ってあるんだろうか。すべてが直接的関わりなのではなく、逆にすべてが間接的関わりになる状態。これは、多分、ある。100%の時のような病的な必然性、切迫感はないだろうけど、ある立場に立つことができれば、コントロールして0に近づけることはできると思う。病を通過した私自身も含めて、今、私が本当の意味で分かり合えると感じている人たちは、0%を想像したり体感したりできていると思う。

  今はここまでしか書くことができない。合っているかどうかも分からない。ただ、書いているうちに見えてきたことは、「一時的な状態」と「存在そのもの」は全く別物で、「病的な状態」と「病を抱えた存在」も別物であるということ。

  というわけで、次はアントナン・アルトー関連の本を読み返そうと思っている。

安定=静止ではない。動き続けること。

   京都賞シンポジウムにて、生命の細胞内で起こっている現象について、ミクロのスケールの説明を聞くことができた。登壇者は福岡伸一、森和俊、長田重一、大隅良典(敬称略)。ノーベル賞級の研究は、素人の私にも大変な刺激を与えてくれた。

   共通して設けられたテーマは「生命の神秘とバランス」。動的平衡。生命は、分解・破壊と合成・生産を繰り返しており、さらに言うなら、分解・破壊は合成・生産を先回りしている。方丈記の「かつ消え、かつ結びて」の部分はそこまできちんと表されていて秀逸である、と福岡先生。死ぬことが生まれることより先回っていて、うまく死ねなければうまく生まれることができない、生きることができない。これがあらゆる生命に共通して言えるということは、とても示唆的だ。

   私はその話を聞きながら、ゴミ屋敷に住んでいる人と行き過ぎたミニマリストを同時に思い浮かべた。彼らがアンバランスだと直感的に思うのは、どちらもうまく捨てられていないからだ。捨てすぎor捨てなすぎ。

   でも、本当にアンバランスなのか??という疑問が。アンバランスであると定義できるとしたら、本人たちが「本当は捨てたいけど捨てられない」「捨てすぎてしまって生活しづらい」などと感じている瞬間だけだ。もし彼らが「これが一番心地よいのだ」と安定しているんだったら、バランスはとれている。まぁ、その静止状態のままバランスを維持することは絶対に無理で、エントロピーは増大する。抗う必要がある。それでまた否が応でも動くことになる。生きているので。

   では、どれくらい捨てればバランスが保たれるのか?ちょうどいいポイントはあるのか?それは、個に委ねられているとしか言いようがない。たとえ周りの1億の人間(細胞)が自分と違う動きをしていても、自分が安定ならそれでいいんだと思う。ただ、結果的にそれですぐに淘汰されてしまうかもしれない。でももしかしたら自分だけが生き残るかもしれない。起こる前には、誰にも分からない。生命が不思議でおもしろくてたまらないのはこういうことだ。

   生命をもっと知りたくて、現象を写真のように切り取って時間を止めてみても、動的平衡は見えない。じゃあパラパラ漫画のように繋げたり動画にしたりすれば見えるのかというと、どこまで延ばしたところで、無限から見ると瞬間でしかない。人間の日常生活や、せいぜい100年程度の寿命からすれば、現象を適当に切り取ったり繋げたり延ばしたりするだけで公式や法則っぽいものは見えてくるのかもしれないけど、生命はそれでコントロールできるほど単純で簡単なものじゃない。

   それでも生命は動き続けている。死と生を繰り返している。何十億年も。何もしようとしなくても勝手に動くようプログラムされている。

   私がこれまで考えてきた「フットワークの軽さ」とか「モチベーション」とか、最近よく言われる「多動力」とかって、ただひたすら動き回ればいいわけではないんだよな。それは確かだ。だってもともと動きまくってるんだから。生命の動きの本質を、もっと見極めなければならない。動くってなんなのか。どう動くべきなのか。ここはまだよく分かっていないところ。

「言葉の力」を誤解していたかもしれない

  言葉に文法的正しさはつきものだけど、文法的に正しい言葉を使うかどうかも結局は使う人に委ねられている。私がこれまでずっとずっとこだわり続けて生きてきた「言葉」って何なんだろうと根本的に考え直しているここ数日。

  いくら自分が最高で完璧な言葉を使って文章を紡いだつもりでも、受け手に伝わらないことなんてザラで(ていうかまず伝わらない)、最高で完璧なら伝わると信じてた自分、何だったんだろう。

  吉本隆明『言語にとって美とは何か』を読んでいるうちに、そんなことを思うようになって、私がこれまで言葉(外国語含む)とどう向き合ってきたかを振り返って、なんだか分からなかったことが分かって一本線でつながった気がした。これまで何百冊も小説を読んできたけど、全部“読めてなかった”と思ってしまうほど、大元から捉え方が変わった。

 

  外国語を勉強しようとすると、まず単語や文法。規則性とか、その例外とか。とにかく覚えろみたいな感じ。これが私は超苦手。嫌い。ほんのちょっと違うだけでバツにされて点数にならない。通じるのに!!!!!正しい文法使っても伝わらないのに、なんでそれでも正しさを要求されなきゃいけないんだ。むしろめちゃくちゃな文法でも、その人が伝えたいエッセンスが逆にはっきり見えて伝わりやすかったりするじゃん。正しくなくても、伝わればいい。エッセンスさえ伝われば、文法的正しさも文章の長さも語彙の豊富さも関係ない。

  じゃあこの「エッセンス」とは何かと考えると、これは「言葉以前のもの」と言うしかない。言葉は、「言葉以前」になかったものを作り出すんだと思っていたんだけど、そうじゃなくて、見えなかったものを見えるようにするだけだと思う。言葉がなくても、全てはある。言葉があってもなくても、世界は変わらないんじゃないか。

 

  もう少し先に進む。「言葉以前」には、私/自分の内にある「言葉以前」と、外にある「言葉以前」の2種類ある。例えば「愛」と言った時に、内と外で別々の「愛」がある。それを自分が言葉にして使う時には両方一緒にして「愛」と表現するしかない。人それぞれの中でこういう現象が起こっているわけだから、人と人がコミュニケーションを取ろうとするとすれ違いが生まれる。伝わらない。

  たまーーーに現れる「めちゃくちゃ言葉が通じる人」というのは、内と外どちらの「言葉以前」もわりとかぶっていて、どんな言葉を使おうがシンクロし合う、みたいな存在なんだと思う。

  そもそも、内と外というのは常にくっきり分かれているわけではなくて、行き来したりひっくり返ったりするはずなんだけど、どうもここが固くて動かない人が多い印象。外は外として、外のことばかりやり取りすると「社交辞令」とか「お付き合い」とかになり、逆に内は内で価値を置くと「本音トーク」とか「カウンセリング」とかになるのかな。そんな風に分けて考えるから、いつまで経っても窮屈なんじゃないかなぁ。

  私は、誰と話す時も分けてないつもりで、人によって「その場のノリ」と捉えたり「本音」と捉えたりするかもしれないけど、私はいつも同じ。流動的でありたい。常に異なる化学反応を起こせる創造的な人間でありたい。

 

  本を読むことは、著者の内と外を自分と重ね合わせていく作業。外国語を勉強することは、「言葉以前」の存在を感じ、別の言葉でそれを見えるようにする作業。