身体のこと

健康、運動、食べ物のことなどを考えると、理想と現実の折衷案が必要になる。

理想は、野山を動き回る狩猟採集生活によって自然に出来上がる身体。現実は、舗装されまくったコンクリートジャングルに住んで、画一的に機械的に生産された食べ物を食べて、そのままだとほとんど動かないで済んでしまうから、無理やり運動して出来上がったどこかアンバランスな身体。違和感だらけ。

かといって、いきなり田舎に移住して自給自足の暮らしをするつもりもない。飛躍しすぎな気がする。

そこで今探っているのは、生活環境に関わらず、備えておくべき身体性のようなもの。柔軟で、弾力があって、代謝が良い感じの。かなりぼんやりしているけど、イメージだからそんなもん。

芯にその身体性が備わっていれば、現代の生活に合った健康な体が出来上がっていくはず。太っているとか痩せているとか、体脂肪率だとか筋肉量だとか、大事なのは多分そこじゃない。見た目はひょろっと元気がなさそうでも、適切にきちんと動ける人が時々いるので、そういうのがいいのかなと思う。

私自身は、今は芯がぶれているので、なんか外から無理やり「健康」の型にはめて、いびつに仕上げていこうとしている感じ。何をしたら疲れるとか、何をしたら元気になるとか、何時に寝たらいいかとか、何を食べたらいいかとか、全然わかってない。何なら休むタイミングも、休み方もわかってない。

ある人が言うには、私は身体の共鳴性が強いらしい。その説が正しいとすると、「これが正解です!一生これを守っていきましょう!」みたいなスタイルは私には合わない。その時の周りの環境によって、どんどん身体を変えていけばいい、くらいの適当な感じでいいのかもしれない。ぶれているのが悪いことではなくて、ぶれ続けてて良いのかもしれない。

とりあえず、アレルギー反応をなるべく起こさない身体ではいたいです。肌の炎症やくしゃみ鼻水ではなく、別の発散のさせ方を覚えたい(年中アレルギーだけど、特に冬~春にひどい)。そしてできれば、冬に寒さで死にたくなるこの寒がり体質から脱却したい。

巷の健康コラムとかにはもう騙されなくなったので、時間をかけて探っていく所存。オリジナルの健康な身体を。

2020年晩秋

ジタバタする

勝間和代が、YouTubeの視聴者からの質問コメントに、「ジタバタしてみてください」と一言シンプルに返信していたのが印象に残った。勝間和代レベルでも、そういえばジタバタしているように見える。ジタバタとは何なのか。

 

ある目的を成し遂げるために、「①実際に動く時間」が必要なのはもちろんだけど、それをできるだけ効率良く行うために「②どう動くのが最適か考える時間」もある程度は必要で、でも①をせずに②ばかりやって結局動けない人が多いから揶揄されている。本当は「動けない」のに、「動かない」だけだと上手く言い訳して自己正当化してプライドを保ってるように見えるし。

 

それはダサイから、自分はそうならないように、と意気込んでも、絶対に立ち止まるタイミングはあるので、その度に考えてしまう。で、そこで止まったままになったらおしまいだからと、何とか次の一歩を踏み出す。この「何とか次の一歩を踏み出す」を何度か繰り返している状態が「ジタバタ」なのではないか。

 

「正解は全然わかってないけど、とにかく動く」がジタバタかな。

 

 

何もしない人間も等しく価値はあって、別にそれも悪いとは全く思わないけど、適度な目的とか目標とかは良い刺激になるし、上手く乗りこなせればベストだと思う。

宗教性と、それに対するリスペクト

イスラエル、ヨルダン、アラブ首長国連邦を1週間旅して、ユダヤ教キリスト教イスラム教文化が混在する世界をウロウロした。

その後色々考えてみて分かったことは、まず大前提として、それぞれの信者の中にも多種多様な信仰や解釈を持つ人たちがいるから、「ユダヤ教(徒)」「イスラム教(徒)」と巨大な概念を主体として思考することは私にとってあまり意味がないということ。中高生の頃からひたすらそのパターンで物事を考えさせられてきたけど、私が探しているものはそこにはないとはっきり分かった。

それよりも、どんな宗教、宗派にも「リスペクトできる人」と「リスペクトできない人」がいて、自分が抱くそのリスペクトはどこから来るのかということに興味がわいた。結局のところ、「自己研鑽し続けているかどうか」だと思う。生まれながらに特定の信仰を持つことを決められている人もいれば、人生のどこかで自ら信仰し始める人もいるけど、そういう時期や時間の長さは関係ない。自分自身の信仰心や、宗派の宗教性みたいなものを、常に疑い続け、その度に解釈し直して、自分含めた世界を更新し続ける姿勢が大事。

エルサレムで暮らす、正統派ユダヤ教徒の人たちとすれ違いながら、この人たちは毎日めちゃくちゃ頑張ってるんだろうなと思った(語彙がアレだし非常に単純思考なのは承知)。真面目にイスラム教徒やろうと思ったらそれも凄まじい生活になる。山寺に篭るお坊さんみたいな。旅先ですれ違った現地の宗教的ピープルの中で、果たしてそういう自己研鑽型の暮らしをしてる人がどれくらいいるんだろうなと思いを馳せた。

厳しい宗教があると、それに対抗するように甘い宗教を唱える人が出てくる。これは生き方でも働き方でも何でもそう。糖質制限とかヨガとか筋トレとかオタクとか。「頑張らなくてもいい」という人が必ず出てきて、厳しさに疑問を持つ人たちがそちらに流れていく。でも一旦決めたんだったら、やっぱり突き詰めていかないと、だらしなく見える。外から見たらアホみたいに厳しい戒律でも、守ると決めて、この意味は何だとか神の意思はどうだとか考え続けている人たちを私は尊敬する。突き詰めた結果「何か違う」と思ったらやめてもいいと思う。まぁ仏教とかをそんな簡単に突き詰められるとは思わないけど。

 

日本はいわゆる「宗教」(キリスト教とかイスラム教とか)に身を浸してる人は少ないけど、特定の思想に対する信仰心みたいなものは他の国民と同じように皆持っていて(というかこれは人間なら誰でも持ち得るシンプルなものだと思う)、日々それと向き合いながら自分自身や周りの世界を疑い続けて更新し続ければ、自ずと友達ができる。リスペクトできる人も現れる。そうやって群れができていく。

根源的な思想や信仰と並行するように、混ぜ合わせるように、日常生活を送らなきゃいけないのは大変だけど、多くの人の世はそうやって回っているんだと思う。楽になれたらゴールなのかなぁ?それはまた別の話。

ゲーム漬けの日々

哲学的というか本質的というか、そういう問いに対して、色んな人が色んなことを言っている。私はというと、「答えはわからないけど、答えがそこにないことはわかる」という状態がこのところ続いている。

かといって別の場所を積極的に探そうと思わず、ゲームばかりしている。7月末あたりからずっと、1日5時間くらいゲームをしている(予兆はあったが、8月最初のハワイ旅行で何かのスイッチが完全に切り替わった)。

今の自分が巨大な問いに立ち向かうのはコストの無駄だと感じたのかもしれない。

世界はこんなに面白いことで溢れているのに、家の中で1人でゲームばかりしてるなんて信じられない、かわいそう、くらいに他人を見て思っていたのが嘘のよう。今は、家にいる時間はほぼゲームだし、用事がなければ早く家に帰ってゲームしたい、と思っている毎日。

ゲームに夢中になれることが大変喜ばしい。

これがいつまで続くかわからないけど、ずーっと続くとも思わない。いつか、次の景色が見たくなるだろうな。あんなゲームばっかしてた私はどうかしてたなと思う時が来るに違いない。

科博へ向かう電車の中でSFを読みながら考えた

自然の姿が、人間によって恣意的に切り取られ、美しいとか綺麗だとか怖いとか神秘的だとか壮大だとか勝手に価値を置かれ、それが毎日何千も何万も生産されてネット上でシェアされていくの、怖いと思う。

 

境目のないグラデーションがどんどん失われて、見えない部分もどんどん忘れられて、"知れば知るほど"、作用反作用的に別の何かが失われていくと思う。

 

って、分かっているけどガンガン消費して流していってしまう。やっぱり言葉が邪魔なのかもしれない。

身体感覚

色々頭の中で言葉を巡らすうちに、ハッこれはこういうことか!あれはああいうことか!つながった……!となって、諸々まるごと腑に落ちる瞬間が最近よくある。頭でそれが正解(っぽい)と分かったつもりでも、体が分かっていなかったということに、そこで初めて気づく。そしてそこで得た体感を改めて言葉にすると、あまりにも当たり前というか当然のことなので、逆に今まで自分はこのことを分かっていなかったのか、身体を通せていなかったのか、と驚愕する。自分がよく見えなくなる。

 

ここで自分が見えなくなるのは多分良いことだ。自分VS世界という妙な対立構造が一旦解除された証拠だ。あとはもう、自由に好きなタイミングで好きな場所に、私というプレイヤーを置いて動かすだけだ。

 

考える時は致し方なく二次元に落とし込んで分解するけれど、これらは全部次元を跨ぎながらどこかで同時に起こっているはずだ。

 

今読んでいる本は:

マイク・ハンセル『建築する動物たち』

パーカー『動物が見ている世界と進化』

テレンバッハ『味と雰囲気』

また『レヴェナント』のことを考えている

やっぱり「死んだら全部終わり」なのがもったいなくて、私は頑張って生きれるとこまで生きようとすると思う。そしてその渦中では、生きるとは何かとか、自然とは何かとか、自分とは何かとか、神とは何かとか、絶対に考えられない。それどころじゃないはずだ。というか、考えなくても身体が全部わかってると思う。環境と一体になっていると思う。これが、生き物として一番「正しい」状態だと思う。人間が、なりたくても簡単にはなれない状態。

 

ブッダがやろうとしたこと、ちょっとわかった気がする。