物語はその日のうちに

人間が人間として自然に生きることを考えています

想像力の基盤は身体感覚

 想像力の基盤は身体感覚だと思う。

 「想像する」とは、触覚や喜怒哀楽など自分の身体感覚をもとにして、アナロジー思考によって他者の身体感覚を再構築することではないかと最近考えるようになった。「像」という言葉が入っているからには、イメージが出来上がらないといけない。

 自分の身体感覚が存在しないままいくら他者の身体感覚を想像しようとしても、それはあくまで論理的な「予測」「予想」に過ぎなくて、「像」の実感を伴った「想像」には至らないと思う。身体感覚が存在しないままでも論理的思考力を駆使して予測、予想をある程度正しくおこなうことはできるが、そこには実感が伴わないので、その先の「理解」「共感」といった相手と溶けあったり分かりあったりする感覚に到達できない気がする。

※「想像」をもとにこちらが何か表現をして、それが相手に伝わった時に初めて「理解」「共感」は生まれるのではないか。私が1人でできることは「想像」までだ。

 例えば「相手の痛みを想像する」という時、実際に自分が怪我をしたり、何かで傷ついたりする経験をして、身体感覚として蓄積された「痛み」のバリエーションが豊かであればあるほど、相手がどう痛がっているのか緻密にリアルに「想像」することができる。自分が傷ついた経験が乏しいと、「相手は痛がっているようだ」というところまで予想できても、身体感覚が伴わないので「想像」には至っていないと思う。

 また、自分自身が未知の領域に入っていく時に、未来の自分、未来の状況を「想像する」という時も同じことが言える。これまで自分が蓄積してきた身体感覚をベースに、アナロジックな回路でこれからの自分の身体を再構築する。こういう状況になったらきっと自分はこう感じるのではないか、自分の身体はこんな反応をするのではないか、というイメージを準備する。

 もちろん、想像は想像に過ぎず、現実は想像通りにいかないことの方が多い。それは当然のこととして受け止め、現実への対処を考えれば良い。では想像することは無駄なのか。何だか無駄な気もしてくる。ただ、想像って意志の力で制御できるものではなくて、してしまうものじゃないかと思う。長く生きれば生きるほど、様々な経験をすればするほど、身体感覚の厚みは増して、想像もより豊かに繊細に広がる。より現実と一致しなくなる。でも、想像することで未来を迎える「覚悟」は決まりやすくなると思うのだ。

 想像しよう。