物語はその日のうちに

人間が人間として自然に生きることを考えています

時間の形

このところ、電車に乗りながら、お風呂につかりながら、ご飯を食べながら、ひたすら時間について考えている。

 

 時計が刻んでいる時間は「正しい」時間というわけではない。確かに「基準」ではあるけど、人間が社会生活を営む上で必要になって便宜的に定めたにすぎない。日のあたる場所、潮の満ち引き、木の年輪、棚に積もった埃、などなど、時の流れが可視化されたものはいくらでもある。共通して言えることは、変化し続けているものであるということ。

 ここで浮かぶのは、「永遠」「無限」「不変」しか存在しない世界だったら、「時間」という概念そのものがなくなるのでは?という問題。現実にそんな世界はありえないけど、断片的にでも、例えば「絶対に埃が発生しない、真空で無重力の空間」「絶対に消耗しないソーラー電池」とかを想像すると、そこに存在するものって「永遠」ではないか?

 ひとつのものの状態が永遠に不変であるというのはあまり現実的でなく、想像が難しいかもしれない。じゃあ「同じ場所に必ず戻ってくる」という動きがある程度保証されているものだったらどうだろうか。例えば地球と太陽の関係、生きてる限りはいくら切っても伸び続ける髪の毛や爪なんかは一般的で想像しやすい。地球や髪の毛や爪の立場からしたら、時間という概念なんてどうでもよさそうだ。ずっと同じことの繰り返しなんだから。それが薄毛に悩み始めると突然「有限」を感じて、毎日毎日頭頂部を気にするようになったりする。変化するから。

 人間は、昨日と今日はまるで同じように感じる人も多いかもしれないけど、さすがに年単位になると「変わったなぁ」と自分で思う人がほとんどじゃないかな(思わない人は悪い意味で人間らしくないと思う)。それは自分の内で様々な変化が起こっているから。この場合は外(周り)はあまり関係なさそう。だって外が変わっても変わらなくても、自分が変わっていれば「変わった」「歳をとった」「成長した」「退化した」と感じるから。じゃぁ人間が「自分は永遠である」と実感することは不可能なのか?

 ここで思い出すのは、映画『恋はデジャ・ブ』(恋はデジャ・ブ [DVD])。ビル・マーレー演じる主人公は、とある1日を何度も何度も繰り返す無限ループに陥ってしまう。何をしようとも”明日”が来ず、寝ると必ず同じ日の朝6時に戻る。自殺しても死ぬことなく、同じ日の朝に戻る。歳もとらないし、カレンダーも進まない。本当にしつこくしつこく同じ日が繰り返されるので、観ている方も「永遠」と「絶望」と「虚無」を感じる。少しずつ不安になる。時間は嫌でも流れていって、明日は必ずやって来て、いつか死ぬ、という前提があるから、人生は尊いのだ。今日という日も、私の命も、あなたのことも、大切に思えるのだ。・・・っていうありきたりなメッセージというよりは、「永遠」の恐怖をリアルに感じられる映画。やっぱり永遠って手に入れても仕方ないのかな?

 少し話は飛んで、グールドのワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語 (ハヤカワ文庫NF)に書いてあったこと。進化の系統樹というのがあるけど、動物の系統樹では、ある種の枝が他の種の枝と急につながったり、他の枝にジャンプしたりはせず、そのままそれぞれの枝のまま伸びていくのに対して、植物の系統樹では他の枝とつながることもあって、「樹」というより「網の目」のような形になるらしい。これはかなりびっくらこいた。この1年くらい、博物館で何万年、何億年前の生物の化石なんかを見ながら「なぜこの動物の形に今の動物が再び戻ることはないんだろうか」と不思議で仕方なかった。それは動物に限ったことで、植物まで視野に入れると「時間が前に進む」という概念がちょっとひっくり返らないか?上に書いた「同じ場所に戻ってくる」状況が、動物にはないけど植物にはあるんだとしたら、「進化」ってなに?樹のように上に伸び続けていくものではなくて、縦横無尽に移動可能な網の目なんだとしたら、「進む」も「化ける」もあまり重要じゃなくなる気がする。まぁ進”歩”ではなく進”化”といってるので、「歩む」より「化ける」の方がまだ方向性のニュアンスは薄いけれども。

 少しずつ木の年輪が増えていくように、棚の上に埃が積もっていくように、顔の皺が増えていくように、生命の進化も少しずつ変化する、つまりは不可逆なもので、万物がそうである以上どうしても「時間」は生まれてしまうのだと思っていた。でもどこかのスイッチを入れ、スケールを調整することで、それを「永遠」「無限」に解釈し直せないだろうか。なんかできる気がしていて、今日も考え続けている。魂とか宇宙とかが一見それっぽいけど、所詮「個人が信じられるかどうか」の問題で、説得力を持たせるのは難しそうだ。

 自分自身が「永遠」になることは望んでないけど、どこかに「時間」の概念すら存在しない世界があって、自分はその一部である、と思えないかなぁ。実感できたら、また色々拓けていくのに。結構近いところまで来てる気はする。

楽しかった日に余韻に浸りながらいつも考えること

覚えておかなくてはいけないことは、自分の周りの人たちに優劣はないということ。だいたい、Aさんに会った日はAさんが一番になるし、Bさんに会った日はBさんが一番になる。会っている当の自分自身が日によって別人なのだから当たり前のことというか、そもそも比較できないのだ。誰の方が理解し合えるとか、誰の方が優しいとか、誰の方が好きとかすごいとか、そういう優劣はない。大前提として、人付き合いをするにあたって忘れてはいけないことだと思う。そして目の前にいる人を一番にすることは、多分間違っていない。目の前にいる人に最も合った自分に、自分を作り変えること。同時に相手によって作り変えられる、とも言える。

会ったばかりの人に「まぁ明日になったらあなたのこと今みたいには思ってないと思うけど」なんていったらびっくりされるかもしれないけど、本当のことだから仕方ない。びっくりされるから言わないけど、思ってる。あなたも思ってるんでしょう、と思ってる。だから別れはいつも名残惜しく、だけど同時に清々しい。

どんな人と別れた後も、必ずたった1人に戻る。昔抱いていたネガティブな孤独感や寂寥感、絶望感では全くなくて、むしろ「その日の自分」ともお別れして清々しいような。そう考えると、1というか0もしくは∞みたいなものかな。誰でもない自分。寝て起きたらまたどんな風にでもなれる、変幻自在の自分。それを大切に守りたいと思う。守っていれば、八方美人と呼ばれたり、無闇に人を傷つけたりはしなくて済むはずだ。

ホロコーストが好きと言うと語弊があるけれども

私が中学生くらいからずっとホロコーストに興味を持ち続けている理由が、自分でもよくわかってなかったんだけど、「普通の場所」(≒生)と「死に限りなく近い場所」(≒死)が紙一重にあるというその異常さ(だけど本当は異常ではなく誰にでもあてはまること)に惹かれているのかもしれない。日常生活を送っていたらいきなり強制連行されて収容所に送られて殺されるとか、収容所に入れられて死ぬかと思ったけど特別な職業だったお陰で待遇が良くて案外苦労のない生活を送っていたとか、ドイツが降伏してそれまでの地獄から解放されて安穏な生活に戻れたとか、どの体験をとっても、普通の人が体験しようがない異様なスパン(数日、数週間、数ヶ月単位)で「生」と「死」の境をうろうろさせられている感じがする。まともな感覚で対応していたら頭がおかしくなりそうなのに、ユダヤ人たちは全員がパニックになって動けなくなるわけでもなく、淡々と自己を押しつぶし、死ぬ人は死んでいって、生き延びた人は生き延びた。理性の力を搾り出していた。何百万人もの集団が、一斉にそうさせられた。

 

誰だっていつ事故や災害に遭うか分からないとか、いつ心臓発作を起こすか分からないとか、学校なんかではよく戒められてきたけど、やっぱり「死と隣り合わせ」を常に実感しているというのは平和な国に暮らしている限りは難しい。良く言えば危機管理能力が高い、悪く言えば心配しすぎ、みたいになってしまう。日常生活の妨げになる。子どもだった私にとって、ホロコーストは、「死」がすぐ隣に付きまとっている感覚を日本に暮らしながらイメージするのにとても役立った。大人になった今でも変わらない。

しかも、”頭が良かった”人や”まともだった”人まで虐殺に加担していたという事実がある。正しいと思い込んでやっていたという。これもまた好奇心をそそられるというか、「何か自分の理解を超えたパワーがどこかにあるな」という勘が働いて、「生」と「死」の距離感がまたここで揺らぐ。善悪の概念も揺らぐ。

 

誰が悪いとか、何が原因だとかが問題ではない。ただ何百万人もの人(ドイツ人もユダヤ人も、その他大勢の巻き込まれた人も)が、生と死の間を往来して、翻弄されたということ。世界中でこれまでいくつもの争いがあって大量の人が死んでいったけど、ホロコーストの構造はやっぱり複雑怪奇で、自分の中でのゴールは見つかりそうにないなぁ。どう考えても異様。だから興味が尽きることがない。

ナチスが悪いに決まってるじゃん何言ってんの」とバッサリ言われたこともあったけど、そういう人には通じない話だなぁと思う次第。私の目はもっともっと深遠に向かって、どこかに焦点を合わせようと今も動き続けているのだ。

この世界の片隅に』が流行ったけど、あれも「死と隣り合わせの日常生活」が描かれていて、近いものがあるかも。当事者たちは恐怖におびえ続けているわけではなくて、意外と「普通」がそこにはある。そこに生まれる物語。私と同じ「普通」でも、彼らの「普通」はとてもとても切実じゃないですか。ホロコーストも、私の中ではそういうことなんだよなぁ。

世界を分ける

福岡伸一 世界は分けてもわからない (講談社現代新書) の中に、「世界は“流れ”であって、それを分けようとすると一部を切り取ることになり、その分け目である“プラスα”が生まれる。世界(流れ)が止まる」というようなことが書いてあった。本来、世界は分かれていない。勝手に人間が分けているだけ。思えば確かに、人間独自の道具や感覚を使わないと「分ける」ことはできない気がする。「分けることで生まれるプラスα」のイメージは、四角を2つに切った時にそれまで存在しなかった境界が生まれる、その境界に近いかな。

人は目の前の何かを見た時に、無意識に分けてしまうんだと思う。「客観視」とか「俯瞰して見る」とか言われるのは多分それのこと。分けた途端に世界は止まり、自分だけ独立してしまう。世界からはみ出てしまう。「~しまう」と書いたけど、別に悪いことではなくて、必然かな。避けられない。ただ、分けている自覚がないと、自然である「流れ」を不自然なまま止めていることに気づけない。世界は流れ続けているのに自分だけ止まってしまっていることに気づけない。ずーっと止まったままの人は多いと思う。

生きるということは、止まることじゃない。流れに乗って動き続けること。自分も流れの一部になること。できれば何をするにも動きながらしたい(理想の遊びとはそういうもの)。社会学とか人類学とかで「つまらない」と感じるのは、それが止まった視点でしかない時。観察者も一緒になって動いているのは面白い。今読んでいる奥野克巳ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたことが面白いのはそういう理由。

世界を分けた時にも、「分ける人」になるんじゃなくて、「分け目」になれればいいのかもしれない。人間以外の動物は「分ける」ことをせずに常に動いているよなぁ。

 

(追記)

・物理的に分ける:顕微鏡観察のために全体から部分を取り出す、写真撮影をして1コマを切り取る、etc

・頭の中で分ける:生物学、図書館、博物館などでの分類

ついでにこれも美しかった


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紫陽花がわずかに青を帯びはじめた。小さな蕾の中で起こっているであろうワンダーに思いを馳せる。

自分の視点を止めて初めて、蟻が動いているのに気づく。蟻が2匹とも表に出てくるまで、しばらくスマホを構えて待機。

オン オフ

ここ半年くらいで感じたことだけど、健全で心地よい人間関係って、やっぱりインターネット上では築くの難しくて、直接会わないと無理じゃないかと思う。私自身の問題なのかな。もう最近はネット上でどんなに面白い人が何を言ってようがほとんど引っかからなくなってきていて(悪く言えば「つまらない」)、面白そうな人だなーと興味を持ったらすぐに「会ってみたい」と思っちゃう。会ってみるまでは真価はわからないというか。まあ会ってもわからないもんはわからないけど。会わないよりはずっとマシ。知り合いであっても、ネット上の発言は半分嘘、くらいに思って眺めている。
 
「会えない人」とは近づこうとか関わろうとか思わないことがメンタルヘルスを安定させる秘訣。興味のある人と1度会うだけなら結構簡単だけど、2度、3度と会って“関係”を築こうとするとこれはなかなか。私がこれまでにインターネットで知り合って実際オフで顔を合わせたことがある人は多分100人くらいいるけど、「友達」的な感覚を持ち続けられている人はほとんどいない。「二度と会えない」と言われて絶望するような人は一人もいない。ネット上で築いた関係なんてそんなもんだと思う。残酷というよりは、事実として。 もちろん、ネットがなければ絶対に出会えないような人と出会わせてくれるという点ではネットも大事で、“リアル至上主義”“ネットなんかやめちまえ”みたいにはなりたくないけど、オンラインとオフラインを天秤にかけたらどう考えてもオフラインが重い。ちょうど同じくらいの重さでバランスとってみたいとこだけど、今はオフラインが勝つ。
 
「人は見た目より中身」って言うけど、実は「中身より見た目」なのかも。見えることはとても重要。もっと言えば、においとか声とかを直接自分の体で感じ取れること。会えないなら電話で、とも思わなくなった。だったら文章でいい。夢でも会いたいとか、幻でもいいから会いたいとかもよく言われるけど、じゃぁ夢や幻で会えたとしてそれで満足できるのか?「やっぱり本物がいい」ってならない?これ、いつの時代も変わらないと思いたいとこだよな。VRなどの技術でどれだけカバーできるんだろう。
 
SNSで数値化される人の数が、年々どころか日に日に空虚に見えてくる今日この頃。そう言いつつ気にしてしまってたのが、SNSやめたら本当にどうでもよく思えるようになって、やっと自分が思い描いてた「大人」にちょっと近づけた気がする。この調子だ。