物語はその日のうちに

人間が人間として自然に生きることを考えています

建築を生命として捉える

 今日はこれを聴きに行った。

seimeitokenchiku.peatix.com

 

 福岡先生による生命の定義「生命とは動的平衡である:まず自らを壊し(負のエントロピー増)、そこに新しいものを取り込むことによって自らを作り替えていく」をもとに、建築のあり方を考える、という流れ。

 

 建築=生命である、と捉えるためには、建築物だけを単体でどうにかしようとしてはいけない。そこを出入りする人間や光、空気、水などをひとつの流れとしてイメージすれば、自ずと建築=生命になる。実はものすごくシンプルなこと。

 でも建築家がそれを実現、実感するのに苦労しているんだとしたら、それは人間の生き様があまりにも都市化、現代化しすぎているせいだと思う。体を動かさず、五感を使わなくなっている。頭の中と小さな機械端末だけで世界を捉えようとしている。そんな殻に閉じこもった生物にどんな柔軟な環境を与えても、なかなか流動的な相互作用は生まれない。

 建築が生命として生き生きと動き続けるためには、人間が自らを開いて関わり続けなければいけない。設計、構想の段階から、自分自身が止まったまま建物をどうするのか考えるのではなく、思考や計画を常に作り替えながら進んでいくことが大切。そして出来上がった建物とも積極的に関わる。少しずつ変化させながら維持していく。(壊れやすくても、直しやすければいいんじゃない?)

 

 今の人間の技術では、小さなハエ1匹でさえ作ることができない。けれど、建築物を生命体と捉えれば、十分に作ることができる。共生することができる。細胞や分子レベルのミクロなスケールや、地球や宇宙レベルの壮大なスケールで考えると、どちらも人間の力で作り出すことはできないので、結局人間って無力なんだなーと思ったりするけど、「建築」ってそんな人間が等身大で作り出せるちょうどいいスケールの生命体じゃないかと思った。

 

 そしてとにかく、地球の歴史や生命の歴史からすれば人類の歴史なんてほんの一瞬であるということ。これが腑に落ちていないと、いつまでも人間的苦悩からは抜け出せない。だからといって「どうせいつか人間なんて滅びるんですから」とか言ってたら建築家は務まらないし。大変な仕事だ。

やるべきことを決めるのは誰か(何か)

 「やった方がいい(かもしれない)こと」と「やらなくてもいい(かもしれない)こと」に大した差はない。考えなくていい。「やるべきこと」だけに集中してやればいい。

 やるべきことは、考えなくてもわかる。考える前に体が動く。やりたいかやりたくないか迷うこともない。迷うことがあるとしたら、やりはじめてふと足を止めた時だ。足を止めた時点で、やめるべきだと体が反応したらやめればいい。続けたかったら続ければいい。それだけの話。

 やるかやらないか。動くか動かないか。それを自分で決定することが要だとずっと思い込んで生きてきたけど、動きを止めて決定を下そうとしている時点で意識は「止まってしまってる」ことに気づいた。もっと大切なのは、動きを止めないこと。流れを感じ続けること。自分をどこかに固定しないこと。

 自分というものがあるとしたら、「自分ではなく、自分でなくはない」時空の中。そこには自分だけがあるのではなく、他のものと一緒に存在している。このことが、2年くらいかけて本を読んだり人と話したり考えたりしてやっと腑に落ちて、まだぼんやりはしているものの、この1週間ほどで確実に掴めてきた。

 そういうことになると、もう「立ち止まって」「自分は何をやりたいか、やるべきか」「どの方向に動くか」などを事前に考えて決定することが無意味に思われる。自分と自分ではないものの流動性の中で、自ずとやるべきことは現れる。それをやればいいだけ。

 

 こうして何かを書き残すタイミングも、自然にやってくるから不思議だ。まぁ、不思議でも何でもないのかもしれない。自然ってそういうことだ。

自分がどこまで分かっていて何を分かっていないのか探るための試し書き

 瞬間的に全細胞が入れ替わってしまうほどの刺激や衝撃というのは、外からの力よりも内からの力がほんの少しでも勝った時に起こると思う。内からの力が弱い時に、いくら外から力を加えても無駄な気がする。少なくとも私の身体ではそう。

 生命とは、動きである。最大限にその動き(変化)が大きくなるのは、内からの力と外からの力が拮抗している静的な状態の中で、ほんの刹那、内からの力がわずかでも大きくなった瞬間だと思う。両方の力が拮抗していると、気づかないうちに内と外が入れ替わったりすることもあるだろう。そうやって矢印がごちゃごちゃ行ったり来たりしていると、ある時、内からの力が外からの力を上回る。そこで初めて、そこまで溜め込まれていた(拮抗状態で行き場のなかった)エネルギーが「動き」に使われる。そういうイメージ。

 この「内からの力」というのが、AIにはまだまだ出せないということじゃないかな。

 

 「内」と「外」をさらに解像度上げて考えて書き起こそうとしたら頭が痛くなってきたので、今日はここまで。

 

噴水

  ワルシャワのサスキ公園に、大きな噴水がある。噴水目当てで行ったわけではなく、単に(公園気持ちよさそうだな~)とふらっと入ったら、立派な噴水があったというだけ。そんなに長時間いるつもりはなかったのに、やけに惹かれてしまい、しばらくボーッと水を眺めていた。

 

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  写真にすると動きが止まってしまうのでもはや別物だが、ワシャーーーーーーッと大きめの音を立てながら、ひたすら吹き出しては落ちるだけのそれは、特別美しいわけでもなく、下品なわけでもなく、便利なわけでもない。水の動きが面白くて眺めているうちに、「で、結局これ、なんなんだ?」と不思議になってきた。

 

  私の中で「水」といえばまず自然物で、海の広さとか、川の流れとか、滝の勢いとか、雨や雪の冷たさとか、どれも自分でどうこうできるものじゃないと思っていた。ただ、そこにあるもの。変化し続けているもの。

  それに対して噴水は、完全に管理された人工物で、ひたすらその場で循環しているだけ。しかもわざわざエネルギーを使って自然の重力に逆らっている。富や権力を顕示するために、こんなことしようと考えるんだなぁと、ヨーロッパの人たちの感覚を新鮮に思った。時間とお金に余裕がある人たちの贅沢、娯楽なんだ。要は遊び。大人の水遊び。

 

  噴水、面白いじゃん!もっと見たい!となって、噴水公園にも行ってみた。


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  こちらは、吹き出す量、タイミング、強さを操作して、良い意味でふざけている感じ。ピューーーーーーン!ピヨピヨピヨピヨ、ピヨーーーーーン!みたいな。東京でここまでの規模の噴水は見たことなかったので、ここでもしばらく佇んでいた。

  水には形があるようでないようで。一瞬だけあらわれるその形を自分の目で捉えてはまた次の一瞬を捉え……という一瞬の連続を楽しんだ。波打ち際にいる時の気持ちと似ていたかも。

  これから日本でも噴水を見かけたら、注意して見てみようと思う。

 

ポーランド旅行記2)

周防大島物語

  ある、海と山に挟まれた小さな町に、翁が住んでいた。ある日、遠くから孫とその母親が遊びに来たので、一緒に海へ行くことにした。孫はもうすぐ2歳になる。

  孫と並んで歩いていたが、母親を求めて引き返してしまった。後ろ姿をたしかに見たと思ったが、孫はそのまま消えてしまった。

  家族みんなで探しても探しても、孫は出てこなかった。そのうち町の者が集まってきて、みんなで探した。ある者は、誰かに連れ去られたと言った。またある者は、鷹に捕って食われたと言った。2日経っても出てこないので、もうどこかで死んでいると思われた。

  翌朝、山の向こうから、見たこともない男がやってきた。男は、お前の孫がどこにいるか分かると言った。孫はまだ生きていると言った。そして山を登りはじめた。名前を呼びながらしばらく行くと、孫が「おーい、ここだ」と応えた。孫は苔のむした岩の上に座っていた。飴をやると、そのまま噛んで食べた。男は孫を抱いて、翁と母親に返した。みんな喜んだ。死んだと言った者は、たいそう驚いた。

  男は、初めてこの町に来たそうである。子をこの世に引きとめたので、崇められ、感謝された。祝いの宴が終わると、自分の国へ帰って行った。

今、好きだということ

  その人が生きているうちは、その人の制作したものよりも、その人の存在や生の形そのものに興味がわくし、知りたいと思う。亡くなってしまったら、仕方なく生前のそれを追い求めるようにして、制作したものを見たり聞いたりするのかもしれない。

  私が好奇心をそそられる人やものを思い返すと、ことごとくこれが当てはまるので、本当っぽい。

  生きてるうちは、なるべく会って直接関わりたいなぁ。声を聞きたいし、動くのを見たい。触りたくなったら触ってみたいし。温度やにおいも感じてみたい。その人自身と、周りと、両方を。そしてそこに自分も身を置くことで、自分自身を作りかえる。作品だけじゃこれをするには足りないんだよな。

  もう存在しないなら、生前の姿を想像し放題というのはあるけど。でもそれってちょっと暴力っぽいな。身勝手というか。

 

  互いがせいぜい100年しか生きられなくて、そのうちシンクロするのはごく僅かだと思うと、同時期を生きてるだけで貴重だし、逃せない。逃したくない。

 

アウシュヴィッツ=ビルケナウ

   ビルケナウは広かった。あまりにも広かった。果てしなかった。こんなに開けた空と平地は、未だかつて見たことがなかった。やけに殺風景だけど、平穏で静かな場所だった。太陽が熱かった。

  ホロコーストは、幼い私の中で生まれたモンスターのようなもので、細胞分裂を繰り返して成長しつづけていた。どこまで大きくなるのか自分にも分からないまま、無理やり心の中に閉じ込めていた。

  それを解放して、本来の居場所に返してこれたような気がする。これからは、自分とは切り離された場所で生かしておける。もう私がしなきゃいけないことはない。どうなっても構わない。

  これから何百年、何千年、何万年と経って、資料も残骸も人間の記憶も全部が消えてしまったとしても、なくならないものは確かにあると思った。

 

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ポーランド旅行記 1)