物語はその日のうちに

人間が人間として自然に生きることを考えています

変わらないもの(予感として)

自分の身体の核にあるものは、生まれてから今までで育てられたというより、受精の瞬間から持っているものな気がする。

もちろん環境によって影響はされてきたけど、全く別の環境で育てられても変わらなかったのではないかと確信しはじめている。

この「核」というのは、ありとあらゆる知覚を司る光のようなものだ。(私の場合は光なのだが、単なるイメージの問題で、生き物によって色んな姿であると思う。)この光は肉体がどんな状態になろうと、死ぬ瞬間までなくならない。もしかしたら死んだ後もなくならないかもしれないけど、そうすると受精の時に新しく生まれたことと整合性がとれなくなるから、誕生の瞬間と死の瞬間で、それぞれ何か別のものに生まれ変わったり交換したりしているのかも。

 

生き物の定義には色々あるけど、この核が見出せるかどうかで、生き物かそうでないかは判断できそうだ。めちゃくちゃ恣意的で、「私が生きていると感じているので生きています」という言い方しかできなそうだけど、他人が作った定義よりもずっと飲み込みやすくてしっくりくる。

 

マドリン・ギンズが『ヘレン・ケラーまたは荒川修作』の中で書いている「ヴォランタール」の概念でビビッときた。ヴォランタールは「自発的なものの実在と記号(構造)」。ヴォランタールは「ダイビングしたり、また浮上したりしながら、その度意味されたものあるいはもしもを次々と携えてくるので、わたしという空が描出され、「個」の基本単位が構築される」。

これだなぁ。私がこのところずっと探していたものはこれだなぁ、という感じ。

 

あと最近は宮沢賢治を少しずつ読んでいるんだけど、彼の中にもダイヤモンドのような核があると感じる。(面白いのは、宮沢賢治の象徴ともいえる概念の「風」は核になり得ないことだ。風は差異や間にしか生まれないから。)

 

変わらないものは個々の中に確かにある。真実とか愛とか希望とか神とか、そういう概念ではなく、どちらかというと質量をもったものとしてあると思う。人間の目に見えるかどうかは別として。だから他者との共有もできないんだろうなぁ。そんな感じ。