物語はその日のうちに

人間が人間として自然に生きることを考えています

デジタルネイチャー

  落合陽一『デジタルネイチャー』をあれから2度読んで、とにかく肝だと思った部分は、まえがきの「デジタルの自然がもたらす生態系の中で、僕の意識は一人称と三人称の間を往復し、身体は思考機械と移動機械を架橋している」のところ。デジタルネイチャーが実現した世界では、身体が機械を媒介とすると同時に、機会が身体を媒介としながら、それを取り巻く自然と一体となる。自然界の情報を量子化して再構築することで、それが可能になる。…と、ここまでは大体読み取れて、めちゃくちゃ刺激的で面白いと思ったし、将来が楽しみでしかなくなった。

  ただどうしても引っかかって見過ごせないのは、デジタル“ネイチャー”は、今ある“自然”に上書きはできないんじゃないか?ということ。どうしてもこの本を読んでいると、デジタルネイチャーは「新たな」自然として提示されていて、あたかもこれまで存在していた自然が塗り替えられるみたいな書き方をされているように思える。新しい思想!って感じで。私が第一印象で反射的に反発しかけたのは、この部分。たしかに、人間と機械があれば完全に新しい世界観が生まれるし、近代も終わる。それは理解できる。でもデジタルネイチャーという足場に立った上で、真正面から事事無碍と向き合って読み解こうとすると、「人間」と「機械」という大前提は邪魔になる。そんなのなくてもいいはずなんだ、という信念が私の中にどうしてもある。私が考える人類の幸福というのは、デジタルネイチャーには見つからない。それでちょっと困っている。この本に全面的に賛同できなくて。

  多分、ちょっとしたスイッチの切り替えでもっと柔軟に考えられるんだと思うから、もうちょっと考えてみる。

 

  何となく日々思っていることは、現代人がイメージする「自然」って本当に乏しいんだろうなということ。悲しいほどに。デジタルネイチャーがスッと飲み込める人から見た「自然」ってどんなんだろうって興味がある。私が大切に思って感じている「自然」と「デジタルネイチャー」にはやっぱり距離があって、いずれデジタルネイチャーに飲み込まれてしまうのかなと思うと切ない。

時間の正体(あるとすれば)

  九鬼周造 時間論 他二篇 (岩波文庫)を読みながら考える。

  仏教の輪廻の考え方だと、時間は円の形で捉えられて、そこを魂がぐるぐる回り続ける。永遠とか無限とかが現れる。ここから解脱するためには、知性で時間そのものを否定するか、武士道という力技で時間を気にしない術を身につけるか、、という話なんだけど、とにかくやっぱり人間中心というか、人間が頭の中で考えているだけって感じがする。

  そもそも、永遠とか無限とかを表すのに、円形じゃないといけないのか?直線だって無限なのに、円が好まれる傾向にあると思う。果てしなさが捉えやすいからかな。直線だと、どこかで終わってるんじゃないかとか、切れてるんじゃないかとか想像できてしまう。それか、円は「同じところに戻ってくる」ということを表せるからか。でもねぇ、やっぱり生命の魂を円形に閉じ込めちゃうのはちょっと無理があると思うなぁ。そんなことしなければそもそも解脱とか悟りとか必要ないかもしれないよ。

  人は、「時間の正体」を探ろうとあれこれ考え続けているわけだけど、私は最近、時間の正体は分かってきた気がする。要は、様々な形が時間を可視化していて、それを捉える(見る)人がいて初めて時間が存在しはじめる。時間の正体は、突き詰めると「無」じゃないかなぁ。ない。ないのに「形」のせいであると思われている。人間が絶滅したら、時間を捉える生命体はなくなって、時間もなくなると思う。他の生物はただ「変化」を捉えてるだけのように見える。って、時間の概念を捉えられるのが人間だけの特権みたいに思うのは嫌だけど。でもそんな気がするな。「時間」の捉え方が、人間だけ歪んでるような。

  では、人間が絶滅して、いよいよ時間が存在しなくなったら、無限や永遠もなくなるのか?、、これはなくならない気がする。

  そもそも、「無限」「永遠」と「無」の関係がよく分からなくなってきている。なんか、ウワァーーーーーと同じことが永遠に無限に繰り返されているうちに、ポーンと別の場所にジャンプして(またはクルリとひっくり返って)「無」になる、みたいなイメージをよく知覚させられてきた気がするけど、かなり雑というか、そこの飛躍は冷静に考えるとよく分からない。繋がってるようで、近いようで、実は全くの別物じゃないかな。「無限」「永遠」は1の連続で、「無」は0なんだから。時間のことはとりあえず置いといて、次は「無」と「無限」に興味がわいてきた。

隔離シェルター

落合陽一『デジタルネイチャー』を読み始めたら猛烈な違和感に襲われた。その違和感の正体はまだぼんやりしていて言葉にできないんだけど、「この本に書いてあることに無条件に共感したり賛同したりしたらダメだ」 と自分のどこかが叫んでいる感じ。美味しく食べられると思ったら、異物だった。飲み込めないどころか、かじりついた途端に吐き出してしまう、みたいな。都心の本屋で平積みどころか棚ごと占領して売られてる光景にも眩暈がした。こんな強烈な本は久しぶりだ。私と絶望的に相容れない部分があることは間違いない。それで他の人たちの読後感を読むと、案の定、自分の感覚とあまりにかけ離れていたので、非常に戸惑い、この本はしばらく読むのやめようと思った。ちょっと経ったらまた読んでみればいい。

 

で、ふと思い立ってジグソーパズルをした。1000マイクロピースのドラクロワ
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パズルはもう飽きて、もうやらないだろうなーとリビングの端に封も解かずに置きっぱなしにしていたやつ。最良の精神統一になり、自分で決めてとった行動はいつも正しいなと思った。

あぁ、誰かと分かり合えた気になってたけど、気になってただけだった、そうだ本来の居場所はここだった、と、1人。一番好きな場所なんだよね。閉じこもってちゃいけないんだけど、世界中で自分だけが安全で守られている気分になれる場所はここしかないのだ。だからたまに避難してくる。solitudeという名のシェルターに。

また出発する時が必ず来る。これを書いている時点で片足は踏み出している。

フォロワーはいらないし、フォロワーになってもいけない。

この人すごい、面白い、憧れる、もっと知りたい……という思いは、関係を築くきっかけになるから否定はしないけど、それをずっと持ち続けたままいても、その人との関係性が主従関係みたいなまま固定されてしまう。自分と相手をつなぐものが矢印のまま固定されてしまう。流動しない。だからできるだけ早く取り払って、お互い自由でいられる関係を作るのがいいと思う。

自分から矢印を向けている場合も、自分に矢印が向いている場合も、どちらも私にとっては窮屈だ。師弟関係にしろ、友情にしろ、恋愛にしろ。どうにかして逃げ出したくなる。

お互い自由でいながら、同時につながっている、そういう関係を可能にするつなぎ目って何だろう。単なる紐ではダメだ。糸?ゴム?バネ?ピンとくるリアルな物質は思い浮かばないな。何であれ、つながれっぱなしじゃダメってことか。

今日は誰とつながろう、明日は誰とつながろう……と、日々つながる相手を変えていけばいいのかも。結局いつも同じような結論になるけど、つまり、自分の立場や他との関係性を固定させないこと。フォロー/フォロワーなんてもってのほか。「ついていきます!」という気持ちは、なるべく他の思いに変化させるのが良い。

自分に矢印が向いている場合は、「そんなん求めてないよ、対等でいよう」と態度で示したいし、自分が矢印を向けている場合は、いつまでも相手がその関係に安住していたらさっさと見切りをつける。逆に、対等に、仲間として見てくれたらより信頼できる。

年齢や地位、肩書きに左右されたり惑わされたりしない、自由な人付き合いを求める。

時間の形

このところ、電車に乗りながら、お風呂につかりながら、ご飯を食べながら、ひたすら時間について考えている。

 

 時計が刻んでいる時間は「正しい」時間というわけではない。確かに「基準」ではあるけど、人間が社会生活を営む上で必要になって便宜的に定めたにすぎない。日のあたる場所、潮の満ち引き、木の年輪、棚に積もった埃、などなど、時の流れが可視化されたものはいくらでもある。共通して言えることは、変化し続けているものであるということ。

 ここで浮かぶのは、「永遠」「無限」「不変」しか存在しない世界だったら、「時間」という概念そのものがなくなるのでは?という問題。現実にそんな世界はありえないけど、断片的にでも、例えば「絶対に埃が発生しない、真空で無重力の空間」「絶対に消耗しないソーラー電池」とかを想像すると、そこに存在するものって「永遠」ではないか?

 ひとつのものの状態が永遠に不変であるというのはあまり現実的でなく、想像が難しいかもしれない。じゃあ「同じ場所に必ず戻ってくる」という動きがある程度保証されているものだったらどうだろうか。例えば地球と太陽の関係、生きてる限りはいくら切っても伸び続ける髪の毛や爪なんかは一般的で想像しやすい。地球や髪の毛や爪の立場からしたら、時間という概念なんてどうでもよさそうだ。ずっと同じことの繰り返しなんだから。それが薄毛に悩み始めると突然「有限」を感じて、毎日毎日頭頂部を気にするようになったりする。変化するから。

 人間は、昨日と今日はまるで同じように感じる人も多いかもしれないけど、さすがに年単位になると「変わったなぁ」と自分で思う人がほとんどじゃないかな(思わない人は悪い意味で人間らしくないと思う)。それは自分の内で様々な変化が起こっているから。この場合は外(周り)はあまり関係なさそう。だって外が変わっても変わらなくても、自分が変わっていれば「変わった」「歳をとった」「成長した」「退化した」と感じるから。じゃぁ人間が「自分は永遠である」と実感することは不可能なのか?

 ここで思い出すのは、映画『恋はデジャ・ブ』(恋はデジャ・ブ [DVD])。ビル・マーレー演じる主人公は、とある1日を何度も何度も繰り返す無限ループに陥ってしまう。何をしようとも”明日”が来ず、寝ると必ず同じ日の朝6時に戻る。自殺しても死ぬことなく、同じ日の朝に戻る。歳もとらないし、カレンダーも進まない。本当にしつこくしつこく同じ日が繰り返されるので、観ている方も「永遠」と「絶望」と「虚無」を感じる。少しずつ不安になる。時間は嫌でも流れていって、明日は必ずやって来て、いつか死ぬ、という前提があるから、人生は尊いのだ。今日という日も、私の命も、あなたのことも、大切に思えるのだ。・・・っていうありきたりなメッセージというよりは、「永遠」の恐怖をリアルに感じられる映画。やっぱり永遠って手に入れても仕方ないのかな?

 少し話は飛んで、グールドのワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語 (ハヤカワ文庫NF)に書いてあったこと。進化の系統樹というのがあるけど、動物の系統樹では、ある種の枝が他の種の枝と急につながったり、他の枝にジャンプしたりはせず、そのままそれぞれの枝のまま伸びていくのに対して、植物の系統樹では他の枝とつながることもあって、「樹」というより「網の目」のような形になるらしい。これはかなりびっくらこいた。この1年くらい、博物館で何万年、何億年前の生物の化石なんかを見ながら「なぜこの動物の形に今の動物が再び戻ることはないんだろうか」と不思議で仕方なかった。それは動物に限ったことで、植物まで視野に入れると「時間が前に進む」という概念がちょっとひっくり返らないか?上に書いた「同じ場所に戻ってくる」状況が、動物にはないけど植物にはあるんだとしたら、「進化」ってなに?樹のように上に伸び続けていくものではなくて、縦横無尽に移動可能な網の目なんだとしたら、「進む」も「化ける」もあまり重要じゃなくなる気がする。まぁ進”歩”ではなく進”化”といってるので、「歩む」より「化ける」の方がまだ方向性のニュアンスは薄いけれども。

 少しずつ木の年輪が増えていくように、棚の上に埃が積もっていくように、顔の皺が増えていくように、生命の進化も少しずつ変化する、つまりは不可逆なもので、万物がそうである以上どうしても「時間」は生まれてしまうのだと思っていた。でもどこかのスイッチを入れ、スケールを調整することで、それを「永遠」「無限」に解釈し直せないだろうか。なんかできる気がしていて、今日も考え続けている。魂とか宇宙とかが一見それっぽいけど、所詮「個人が信じられるかどうか」の問題で、説得力を持たせるのは難しそうだ。

 自分自身が「永遠」になることは望んでないけど、どこかに「時間」の概念すら存在しない世界があって、自分はその一部である、と思えないかなぁ。実感できたら、また色々拓けていくのに。結構近いところまで来てる気はする。

楽しかった日に余韻に浸りながらいつも考えること

覚えておかなくてはいけないことは、自分の周りの人たちに優劣はないということ。だいたい、Aさんに会った日はAさんが一番になるし、Bさんに会った日はBさんが一番になる。会っている当の自分自身が日によって別人なのだから当たり前のことというか、そもそも比較できないのだ。誰の方が理解し合えるとか、誰の方が優しいとか、誰の方が好きとかすごいとか、そういう優劣はない。大前提として、人付き合いをするにあたって忘れてはいけないことだと思う。そして目の前にいる人を一番にすることは、多分間違っていない。目の前にいる人に最も合った自分に、自分を作り変えること。同時に相手によって作り変えられる、とも言える。

会ったばかりの人に「まぁ明日になったらあなたのこと今みたいには思ってないと思うけど」なんていったらびっくりされるかもしれないけど、本当のことだから仕方ない。びっくりされるから言わないけど、思ってる。あなたも思ってるんでしょう、と思ってる。だから別れはいつも名残惜しく、だけど同時に清々しい。

どんな人と別れた後も、必ずたった1人に戻る。昔抱いていたネガティブな孤独感や寂寥感、絶望感では全くなくて、むしろ「その日の自分」ともお別れして清々しいような。そう考えると、1というか0もしくは∞みたいなものかな。誰でもない自分。寝て起きたらまたどんな風にでもなれる、変幻自在の自分。それを大切に守りたいと思う。守っていれば、八方美人と呼ばれたり、無闇に人を傷つけたりはしなくて済むはずだ。

ホロコーストが好きと言うと語弊があるけれども

私が中学生くらいからずっとホロコーストに興味を持ち続けている理由が、自分でもよくわかってなかったんだけど、「普通の場所」(≒生)と「死に限りなく近い場所」(≒死)が紙一重にあるというその異常さ(だけど本当は異常ではなく誰にでもあてはまること)に惹かれているのかもしれない。日常生活を送っていたらいきなり強制連行されて収容所に送られて殺されるとか、収容所に入れられて死ぬかと思ったけど特別な職業だったお陰で待遇が良くて案外苦労のない生活を送っていたとか、ドイツが降伏してそれまでの地獄から解放されて安穏な生活に戻れたとか、どの体験をとっても、普通の人が体験しようがない異様なスパン(数日、数週間、数ヶ月単位)で「生」と「死」の境をうろうろさせられている感じがする。まともな感覚で対応していたら頭がおかしくなりそうなのに、ユダヤ人たちは全員がパニックになって動けなくなるわけでもなく、淡々と自己を押しつぶし、死ぬ人は死んでいって、生き延びた人は生き延びた。理性の力を搾り出していた。何百万人もの集団が、一斉にそうさせられた。

 

誰だっていつ事故や災害に遭うか分からないとか、いつ心臓発作を起こすか分からないとか、学校なんかではよく戒められてきたけど、やっぱり「死と隣り合わせ」を常に実感しているというのは平和な国に暮らしている限りは難しい。良く言えば危機管理能力が高い、悪く言えば心配しすぎ、みたいになってしまう。日常生活の妨げになる。子どもだった私にとって、ホロコーストは、「死」がすぐ隣に付きまとっている感覚を日本に暮らしながらイメージするのにとても役立った。大人になった今でも変わらない。

しかも、”頭が良かった”人や”まともだった”人まで虐殺に加担していたという事実がある。正しいと思い込んでやっていたという。これもまた好奇心をそそられるというか、「何か自分の理解を超えたパワーがどこかにあるな」という勘が働いて、「生」と「死」の距離感がまたここで揺らぐ。善悪の概念も揺らぐ。

 

誰が悪いとか、何が原因だとかが問題ではない。ただ何百万人もの人(ドイツ人もユダヤ人も、その他大勢の巻き込まれた人も)が、生と死の間を往来して、翻弄されたということ。世界中でこれまでいくつもの争いがあって大量の人が死んでいったけど、ホロコーストの構造はやっぱり複雑怪奇で、自分の中でのゴールは見つかりそうにないなぁ。どう考えても異様。だから興味が尽きることがない。

ナチスが悪いに決まってるじゃん何言ってんの」とバッサリ言われたこともあったけど、そういう人には通じない話だなぁと思う次第。私の目はもっともっと深遠に向かって、どこかに焦点を合わせようと今も動き続けているのだ。

この世界の片隅に』が流行ったけど、あれも「死と隣り合わせの日常生活」が描かれていて、近いものがあるかも。当事者たちは恐怖におびえ続けているわけではなくて、意外と「普通」がそこにはある。そこに生まれる物語。私と同じ「普通」でも、彼らの「普通」はとてもとても切実じゃないですか。ホロコーストも、私の中ではそういうことなんだよなぁ。