物語はその日のうちに

人間が人間として自然に生きることを考えています

いつやるか?今でしょ。いやほんと、今なんだよ。

  今やろうとするとものすごい時間とお金がかかることを、将来は技術が発展して簡単にできるようになる、そんな時代が来る。あと5年先?10年先?わからないけど、きっと来る。だからといって、今コストをかけてやることが無駄というわけではない。今の自分がやりたいことは、今やるに限る。

  これ、言われれば当たり前かもしれないけど、最近の私は「わざわざ今やらなくても将来もっと簡単にできるようになるかもしれないし」という(今思えば根拠として弱すぎる)理由で、色んなことへの積極性を失っていた。

  いやいや、動いてなんぼなのよ。今やると10年かかることを努力してやって、やり終わった10年後にそれがたった1年でできるような時代になっていたとしても、自分が通過した10年を無駄とは決して思わないだろうから、大丈夫。一番の目的は、楽して効率よくやることじゃない。やりたいことをやっている、その楽しさや喜びを味わえればいいんじゃないの。

  自分で動いて体験せずに色んなことが知れて分かる世の中には確かになっているけど、やってみなきゃ分からないことは、いつの時代になってもあると思う。家から一歩も出ずに全てを体験できるようになったとしても、だからこその「わざわざ自分でやる」贅沢や喜びは、なかなかテクノロジーも奪えないんじゃないかなぁ。

 

  言われてみれば(自分で書いてみると)当たり前だけどな!!!でもこのことをふと考え始めた昨日までは、当たり前じゃなかったのだ。

  というわけで、この夏は8年ぶりの海外一人旅をすることに決めた。

オリジナル

  物語でも思想でも、そのほとんどは何百年も前に「型」ができあがっていて(物語であれば神話や民話、シェイクスピアなど)、本当に大きな型をオリジナルで作り出せる人はそうそういない。一見オリジナルでも、大抵の映像や言葉は細かい型のつぎはぎのようなもので、全体を遠くから見るとオリジナルに見えているだけ。もしくは細部がオリジナルでも、全体を見たら他と一緒に過ぎない(オリジナルではない)か。

  じゃあもう何を表現しても誰かの受け売りじゃん、無駄じゃん、と思ってしまったんだけど、そんなことはない。諦めたらそこで試合終了、というやつで、表現し続けないと絶対にオリジナルは生まれない。無は無でしかない。

  では、「真にオリジナルとは言えなくてもオリジナルに見えるもの」を生成するにはどうすればいいか。多分、ひたすらインプットとアウトプットを繰り返すことしか方法はない。特にアウトプットの前に大量のインプットをすること。10インプットしたら3くらいアウトプットしてまとめる、的な小出しもいいけど、そんなことやってたら私の場合あっという間に寿命がきてしまうので、1000インプットして1を絞り出す、みたいな凝縮系がいいと思う。濃度が高ければ高いほど、オリジナリティー度合いも高まるイメージ。

  誰かが生み出した芸術作品や文章を「◯◯っぽい」と他の人のに例えたり、「××主義的」と他の人とまとめて分類したりする。最初はそうでも、多作の人なら生み出せば生み出すほど全体の解像度が上がって徐々にオリジナルに近づけるし、寡作の人でも1つのインパクトが大きければオリジナルになる。

  究極は、自分にとって自分が常にオリジナルであると思えればそれでいいのかも。誰かや何かの真似しようとしてもできない、結局なにものにもなれない、の繰り返しで、外から見たらそれがオリジナルに近づいていくんじゃないのかな。私は28歳でやっと自分の中にオリジナリティーを見出すことができた。それで29歳になった。ここからはひたすら磨き続けるだけ。人生は楽しい。

 

  本当は、表現なんてしなくても、生き物は生きているだけで唯一無二のオリジナルなはずなんだけどね。それはまた別の話だ。

デジタルネイチャー

  落合陽一『デジタルネイチャー』をあれから2度読んで、とにかく肝だと思った部分は、まえがきの「デジタルの自然がもたらす生態系の中で、僕の意識は一人称と三人称の間を往復し、身体は思考機械と移動機械を架橋している」のところ。デジタルネイチャーが実現した世界では、身体が機械を媒介とすると同時に、機会が身体を媒介としながら、それを取り巻く自然と一体となる。自然界の情報を量子化して再構築することで、それが可能になる。…と、ここまでは大体読み取れて、めちゃくちゃ刺激的で面白いと思ったし、将来が楽しみでしかなくなった。

  ただどうしても引っかかって見過ごせないのは、デジタル“ネイチャー”は、今ある“自然”に上書きはできないんじゃないか?ということ。どうしてもこの本を読んでいると、デジタルネイチャーは「新たな」自然として提示されていて、あたかもこれまで存在していた自然が塗り替えられるみたいな書き方をされているように思える。新しい思想!って感じで。私が第一印象で反射的に反発しかけたのは、この部分。たしかに、人間と機械があれば完全に新しい世界観が生まれるし、近代も終わる。それは理解できる。でもデジタルネイチャーという足場に立った上で、真正面から事事無碍と向き合って読み解こうとすると、「人間」と「機械」という大前提は邪魔になる。そんなのなくてもいいはずなんだ、という信念が私の中にどうしてもある。私が考える人類の幸福というのは、デジタルネイチャーには見つからない。それでちょっと困っている。この本に全面的に賛同できなくて。

  多分、ちょっとしたスイッチの切り替えでもっと柔軟に考えられるんだと思うから、もうちょっと考えてみる。

 

  何となく日々思っていることは、現代人がイメージする「自然」って本当に乏しいんだろうなということ。悲しいほどに。デジタルネイチャーがスッと飲み込める人から見た「自然」ってどんなんだろうって興味がある。私が大切に思って感じている「自然」と「デジタルネイチャー」にはやっぱり距離があって、いずれデジタルネイチャーに飲み込まれてしまうのかなと思うと切ない。

時間の正体(あるとすれば)

  九鬼周造 時間論 他二篇 (岩波文庫)を読みながら考える。

  仏教の輪廻の考え方だと、時間は円の形で捉えられて、そこを魂がぐるぐる回り続ける。永遠とか無限とかが現れる。ここから解脱するためには、知性で時間そのものを否定するか、武士道という力技で時間を気にしない術を身につけるか、、という話なんだけど、とにかくやっぱり人間中心というか、人間が頭の中で考えているだけって感じがする。

  そもそも、永遠とか無限とかを表すのに、円形じゃないといけないのか?直線だって無限なのに、円が好まれる傾向にあると思う。果てしなさが捉えやすいからかな。直線だと、どこかで終わってるんじゃないかとか、切れてるんじゃないかとか想像できてしまう。それか、円は「同じところに戻ってくる」ということを表せるからか。でもねぇ、やっぱり生命の魂を円形に閉じ込めちゃうのはちょっと無理があると思うなぁ。そんなことしなければそもそも解脱とか悟りとか必要ないかもしれないよ。

  人は、「時間の正体」を探ろうとあれこれ考え続けているわけだけど、私は最近、時間の正体は分かってきた気がする。要は、様々な形が時間を可視化していて、それを捉える(見る)人がいて初めて時間が存在しはじめる。時間の正体は、突き詰めると「無」じゃないかなぁ。ない。ないのに「形」のせいであると思われている。人間が絶滅したら、時間を捉える生命体はなくなって、時間もなくなると思う。他の生物はただ「変化」を捉えてるだけのように見える。って、時間の概念を捉えられるのが人間だけの特権みたいに思うのは嫌だけど。でもそんな気がするな。「時間」の捉え方が、人間だけ歪んでるような。

  では、人間が絶滅して、いよいよ時間が存在しなくなったら、無限や永遠もなくなるのか?、、これはなくならない気がする。

  そもそも、「無限」「永遠」と「無」の関係がよく分からなくなってきている。なんか、ウワァーーーーーと同じことが永遠に無限に繰り返されているうちに、ポーンと別の場所にジャンプして(またはクルリとひっくり返って)「無」になる、みたいなイメージをよく知覚させられてきた気がするけど、かなり雑というか、そこの飛躍は冷静に考えるとよく分からない。繋がってるようで、近いようで、実は全くの別物じゃないかな。「無限」「永遠」は1の連続で、「無」は0なんだから。時間のことはとりあえず置いといて、次は「無」と「無限」に興味がわいてきた。

隔離シェルター

落合陽一『デジタルネイチャー』を読み始めたら猛烈な違和感に襲われた。その違和感の正体はまだぼんやりしていて言葉にできないんだけど、「この本に書いてあることに無条件に共感したり賛同したりしたらダメだ」 と自分のどこかが叫んでいる感じ。美味しく食べられると思ったら、異物だった。飲み込めないどころか、かじりついた途端に吐き出してしまう、みたいな。都心の本屋で平積みどころか棚ごと占領して売られてる光景にも眩暈がした。こんな強烈な本は久しぶりだ。私と絶望的に相容れない部分があることは間違いない。それで他の人たちの読後感を読むと、案の定、自分の感覚とあまりにかけ離れていたので、非常に戸惑い、この本はしばらく読むのやめようと思った。ちょっと経ったらまた読んでみればいい。

 

で、ふと思い立ってジグソーパズルをした。1000マイクロピースのドラクロワ
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パズルはもう飽きて、もうやらないだろうなーとリビングの端に封も解かずに置きっぱなしにしていたやつ。最良の精神統一になり、自分で決めてとった行動はいつも正しいなと思った。

あぁ、誰かと分かり合えた気になってたけど、気になってただけだった、そうだ本来の居場所はここだった、と、1人。一番好きな場所なんだよね。閉じこもってちゃいけないんだけど、世界中で自分だけが安全で守られている気分になれる場所はここしかないのだ。だからたまに避難してくる。solitudeという名のシェルターに。

また出発する時が必ず来る。これを書いている時点で片足は踏み出している。

フォロワーはいらないし、フォロワーになってもいけない。

この人すごい、面白い、憧れる、もっと知りたい……という思いは、関係を築くきっかけになるから否定はしないけど、それをずっと持ち続けたままいても、その人との関係性が主従関係みたいなまま固定されてしまう。自分と相手をつなぐものが矢印のまま固定されてしまう。流動しない。だからできるだけ早く取り払って、お互い自由でいられる関係を作るのがいいと思う。

自分から矢印を向けている場合も、自分に矢印が向いている場合も、どちらも私にとっては窮屈だ。師弟関係にしろ、友情にしろ、恋愛にしろ。どうにかして逃げ出したくなる。

お互い自由でいながら、同時につながっている、そういう関係を可能にするつなぎ目って何だろう。単なる紐ではダメだ。糸?ゴム?バネ?ピンとくるリアルな物質は思い浮かばないな。何であれ、つながれっぱなしじゃダメってことか。

今日は誰とつながろう、明日は誰とつながろう……と、日々つながる相手を変えていけばいいのかも。結局いつも同じような結論になるけど、つまり、自分の立場や他との関係性を固定させないこと。フォロー/フォロワーなんてもってのほか。「ついていきます!」という気持ちは、なるべく他の思いに変化させるのが良い。

自分に矢印が向いている場合は、「そんなん求めてないよ、対等でいよう」と態度で示したいし、自分が矢印を向けている場合は、いつまでも相手がその関係に安住していたらさっさと見切りをつける。逆に、対等に、仲間として見てくれたらより信頼できる。

年齢や地位、肩書きに左右されたり惑わされたりしない、自由な人付き合いを求める。