物語はその日のうちに

人間が人間として自然に生きることを考えています

「美味しい」とは

「美味しい」と一言で言っても色々あるよな~と思いながら本を何冊か読み、考えてみた結果、「美味しい」には大きく4種類あると思った。

 

①旨味そのものによる「美味しい」

グルタミン酸イノシン酸などの「旨味」と言われる成分は、ウマい。個人的な感覚は置いといて、とりあえずこれは否定しようがない。ダシ、大事。

 

②砂糖、塩、油、それらの組み合わせによる「美味しい」

旨味以外にも、単純に、人間が「快」と知覚する基本的な味がある。生まれたばかりの乳児でも、甘味で笑顔になり、苦味や辛味ではウゲッという顔をするそうだから、生き物として生まれつきインプットされてる「美味しい」「まずい」はあるんだろう。危険なものを口にしないためにも。

もちろん、甘すぎたりしょっぱすぎたりすると不快だし、古い油はまずかったりするけど、適切な量の砂糖、塩、油、そしてそれらが適切に組み合わされた時、「うまーーーー」となるのは自然なこと。

※この「快」の刺激をうまくコントロールできなくなると、もっと甘く、もっとしょっぱく、となって健康を害していくんでしょうね。適量を「美味しい」と感じられる体をキープしておきたい。

 

③その他食材の(特に新鮮な)組み合わせによる「美味しい」

②は調味料の組み合わせとすると、食材の組み合わせもある。サーモンとアボカドとか、梅とキュウリとか、鶏肉と香草とか、チョコとバナナとか、それこそ無限に「美味しい」組み合わせがある。

王道のものは頻繁に口にする機会があるから当然のように「美味しい」と感じる。たまにちょっと良いお店でフレンチとか懐石とか鉄板焼きとか食べると、斬新な組み合わせで感動することがある。

化学式で表したり人体の仕組みで考えたりすると、その組み合わせが「美味しい」理由が分かるのかもしれないけど、感覚だけを頼りにするのでも十分だ。新しい組み合わせを探っていくことは、料理や食べることそのものの楽しみのひとつ。

 

④五感すべてを使って想起されるイメージによる「美味しい」

食べ物は、舌の味覚だけでなく、風味(嗅覚)、食感(触覚、聴覚)、見た目(視覚)など様々な要素が絡み合ってその「美味しさ」を生む。口に入れて咀嚼して飲み込むまでの間に、知覚したこと全てが脳内で処理されて、「美味しい」イメージが生み出される。

新鮮な野菜を食べた時に畑をイメージしたり、新鮮な魚介を食べた時に海をイメージしたり、手作り(っぽい)料理を食べた時に親やどこかのベテランシェフ(?)をイメージしたり……

ここでの「イメージ」というのは、視覚的に表せるものに限らず、その人が生きてきた間に経験した様々な記憶から生成された、総合的な表象のこと。単純に言葉だけ、絵だけ、音だけで表せるものではない。これを言っちゃ元も子もないけど、人それぞれの「美味しい」がある。

色々な場所で、新鮮なものや上手に調理されたもの、丁寧に作られたもの、その土地の文化が表れているものなどを食べているうちに、このイメージはどんどん豊かに育っていって、より多様で複雑で解像度の高い「美味しい」が感じられるようになるんだと思う。

 

 

以上、4種類の「美味しい」でした。

野菜、穀物、実、肉、魚、、それぞれの「そのものの味」ってのがそもそもあるよなーとも思ったけど、それを「美味しい」と感じるのは多分④のイメージのお陰だろうな。その食材が本物であり、生きていた時の背景なども一緒にイメージできて初めて「美味しい」と思える。「そのものの味」それ自体は、「そのものの味」でしかないんだろう。

変わらないもの(予感として)

自分の身体の核にあるものは、生まれてから今までで育てられたというより、受精の瞬間から持っているものな気がする。

もちろん環境によって影響はされてきたけど、全く別の環境で育てられても変わらなかったのではないかと確信しはじめている。

この「核」というのは、ありとあらゆる知覚を司る光のようなものだ。(私の場合は光なのだが、単なるイメージの問題で、生き物によって色んな姿であると思う。)この光は肉体がどんな状態になろうと、死ぬ瞬間までなくならない。もしかしたら死んだ後もなくならないかもしれないけど、そうすると受精の時に新しく生まれたことと整合性がとれなくなるから、誕生の瞬間と死の瞬間で、それぞれ何か別のものに生まれ変わったり交換したりしているのかも。

 

生き物の定義には色々あるけど、この核が見出せるかどうかで、生き物かそうでないかは判断できそうだ。めちゃくちゃ恣意的で、「私が生きていると感じているので生きています」という言い方しかできなそうだけど、他人が作った定義よりもずっと飲み込みやすくてしっくりくる。

 

マドリン・ギンズが『ヘレン・ケラーまたは荒川修作』の中で書いている「ヴォランタール」の概念でビビッときた。ヴォランタールは「自発的なものの実在と記号(構造)」。ヴォランタールは「ダイビングしたり、また浮上したりしながら、その度意味されたものあるいはもしもを次々と携えてくるので、わたしという空が描出され、「個」の基本単位が構築される」。

これだなぁ。私がこのところずっと探していたものはこれだなぁ、という感じ。

 

あと最近は宮沢賢治を少しずつ読んでいるんだけど、彼の中にもダイヤモンドのような核があると感じる。(面白いのは、宮沢賢治の象徴ともいえる概念の「風」は核になり得ないことだ。風は差異や間にしか生まれないから。)

 

変わらないものは個々の中に確かにある。真実とか愛とか希望とか神とか、そういう概念ではなく、どちらかというと質量をもったものとしてあると思う。人間の目に見えるかどうかは別として。だから他者との共有もできないんだろうなぁ。そんな感じ。

物理的な痛みについて

84歳の祖母に「今までの人生で1番痛かったの何?出産?」と聞いたら、「結核の手術の後、麻酔が切れた時」と言っていた。祖母は高校生の頃に結核をやっている。それでも今とても元気。当時は誰もこんな元気に長生きすると思わなかっただろう。

女性は出産が1番と言う人が多いから、祖母もそうかと思ったら、それより痛い手術かぁ。当時は麻酔の技術もそこまでじゃなかったのかな。ちなみに祖母は尿管結石もやってるんだけど、それよりも痛い手術ってちょっと想像つかない。

 

私が今までの人生で1番痛かったのは、高校生の頃、一輪車でジャンプする練習をしていた時に着地に失敗して、足首をグキッとやって靭帯を伸ばしてしまった時。あまりの痛みで吐き気が止まらなかった。足首をやっているのに吐き気が止まらないって、今考えても意味わからない。

持続する痛みで辛かったのは、二十歳くらいの頃、痔の手術をした翌日、便秘で詰まってしまっていた便を指で掻き出すという強硬手段に出た時。(いきなりOh...なエピソードですみません。全く恥ずかしくはないです。)これは先生から「本当に痛みに強い、よく耐えられた」と感心されて、ホッとしたのもあると思うんだけど、帰りの電車の中でぶっ倒れて病院に戻り、入院することになった。それくらい痛かった。

これから自分も出産をするとしたら、これらを超えてくるのかなぁ。まぁ人類史上みんなが耐えてきた痛みだから自分だけ耐えられないわけないし、全然怖くはない。

 

そんなこんなで、むちゃくちゃ痛い場面のことを想像したり思い出したりすると、今日のインフルエンザの注射の痛みなんて、蚊に刺される程度のことよ。痛みのうちにも入らんわ。

職場で集団接種だったんだけど、みんな痛い痛い言っていた。痛いか痛くないかで言ったら確かに痛かったけど、あまりにも些細な痛みだった。

 

突然の激痛はいつ訪れるか分からない。覚悟して生きよう。

アーカイブ

デジタルでもアナログでも、濃厚なアーカイブを持ってることへの憧れは強い。20年分の日記帳とか、10年分のブログとか、何千冊の蔵書とか、長ければ長いほど、多ければ多いほど、いいなぁと思う。

けど、自分自身に過去や未来への執着がほぼ無いので(完全に無いと言ったら嘘になるけど、突き詰めてアリかナシかといえばナシ)、アーカイブを残そうという気力は湧かない。

例えば今のツイッターやLINEのアカウントがいきなり消えても、スマホのアルバムが全部消えても、最初は多分「うわっ」と思うけど、別に大丈夫。だから積極的にバックアップとったりセキュリティーかけたりして守ろうとは思わない。

 

昔はアーカイブ残すのが大好きで、子どもの頃から日記やらシール帳やらプリ帳やらブログやらホームページやら読書記録やら、数々のアーカイブを作ってきたけど、飽きるのも早いので何度も消したり捨てたりしていた。そしていつの間にか作るよりも壊す量の方が多くなって、「なくてもいい」に辿り着いてしまった。

アーカイブが濃厚になっていけばいくほど、執着心が強くなって失い難くなる。物理的な処分に苦労することもある。それが嫌になった。だったら初めから無い方がいい。身軽がいい。

 

きちんと作品という形で何かを産んで、それが自分の元を離れて勝手に流通してくれたら、自分の元には何も残らなくても、生きた痕跡のようなものは残る。それはちょっと良いかも。

自分の手元に何かが残るのは邪魔だけど、自分が死んだり消えたりしても、自分の知らないところで、自分の制御不能な時空間で、自分の作品が漂っているのは良いかもなぁ。

世界中のクリエイターやアーティストたちが日々なにかを制作し続けているのは、そんなところへの憧れや願望みたいなのもあるのかな。

(単に「アーティストでしかいられない」「作品が世に蔓延ってるのは自分の知るところではない」という人もいるけど。それが才能というやつか。)

 

とにかく、肩書きが何であれ、制作するものが何であれ、それがアーカイブとして残ろうが消えようが、価値が評価されようがされまいが、ヒトは「何かを作り続ける」生き物なんだな。洞窟の壁画、地上絵、絵巻、短歌、神話、etc......挙げればキリがない。

 

このブログも、いつ飽きるか、いつ消えるか分からないけど、とりあえず今日も書いてみた。今のところはアーカイブ残ります。

身体のこと

健康、運動、食べ物のことなどを考えると、理想と現実の折衷案が必要になる。

理想は、野山を動き回る狩猟採集生活によって自然に出来上がる身体。現実は、舗装されまくったコンクリートジャングルに住んで、画一的に機械的に生産された食べ物を食べて、そのままだとほとんど動かないで済んでしまうから、無理やり運動して出来上がったどこかアンバランスな身体。違和感だらけ。

かといって、いきなり田舎に移住して自給自足の暮らしをするつもりもない。飛躍しすぎな気がする。

そこで今探っているのは、生活環境に関わらず、備えておくべき身体性のようなもの。柔軟で、弾力があって、代謝が良い感じの。かなりぼんやりしているけど、イメージだからそんなもん。

芯にその身体性が備わっていれば、現代の生活に合った健康な体が出来上がっていくはず。太っているとか痩せているとか、体脂肪率だとか筋肉量だとか、大事なのは多分そこじゃない。見た目はひょろっと元気がなさそうでも、適切にきちんと動ける人が時々いるので、そういうのがいいのかなと思う。

私自身は、今は芯がぶれているので、なんか外から無理やり「健康」の型にはめて、いびつに仕上げていこうとしている感じ。何をしたら疲れるとか、何をしたら元気になるとか、何時に寝たらいいかとか、何を食べたらいいかとか、全然わかってない。何なら休むタイミングも、休み方もわかってない。

ある人が言うには、私は身体の共鳴性が強いらしい。その説が正しいとすると、「これが正解です!一生これを守っていきましょう!」みたいなスタイルは私には合わない。その時の周りの環境によって、どんどん身体を変えていけばいい、くらいの適当な感じでいいのかもしれない。ぶれているのが悪いことではなくて、ぶれ続けてて良いのかもしれない。

とりあえず、アレルギー反応をなるべく起こさない身体ではいたいです。肌の炎症やくしゃみ鼻水ではなく、別の発散のさせ方を覚えたい(年中アレルギーだけど、特に冬~春にひどい)。そしてできれば、冬に寒さで死にたくなるこの寒がり体質から脱却したい。

巷の健康コラムとかにはもう騙されなくなったので、時間をかけて探っていく所存。オリジナルの健康な身体を。

2020年晩秋

ジタバタする

勝間和代が、YouTubeの視聴者からの質問コメントに、「ジタバタしてみてください」と一言シンプルに返信していたのが印象に残った。勝間和代レベルでも、そういえばジタバタしているように見える。ジタバタとは何なのか。

 

ある目的を成し遂げるために、「①実際に動く時間」が必要なのはもちろんだけど、それをできるだけ効率良く行うために「②どう動くのが最適か考える時間」もある程度は必要で、でも①をせずに②ばかりやって結局動けない人が多いから揶揄されている。本当は「動けない」のに、「動かない」だけだと上手く言い訳して自己正当化してプライドを保ってるように見えるし。

 

それはダサイから、自分はそうならないように、と意気込んでも、絶対に立ち止まるタイミングはあるので、その度に考えてしまう。で、そこで止まったままになったらおしまいだからと、何とか次の一歩を踏み出す。この「何とか次の一歩を踏み出す」を何度か繰り返している状態が「ジタバタ」なのではないか。

 

「正解は全然わかってないけど、とにかく動く」がジタバタかな。

 

 

何もしない人間も等しく価値はあって、別にそれも悪いとは全く思わないけど、適度な目的とか目標とかは良い刺激になるし、上手く乗りこなせればベストだと思う。

宗教性と、それに対するリスペクト

イスラエル、ヨルダン、アラブ首長国連邦を1週間旅して、ユダヤ教キリスト教イスラム教文化が混在する世界をウロウロした。

その後色々考えてみて分かったことは、まず大前提として、それぞれの信者の中にも多種多様な信仰や解釈を持つ人たちがいるから、「ユダヤ教(徒)」「イスラム教(徒)」と巨大な概念を主体として思考することは私にとってあまり意味がないということ。中高生の頃からひたすらそのパターンで物事を考えさせられてきたけど、私が探しているものはそこにはないとはっきり分かった。

それよりも、どんな宗教、宗派にも「リスペクトできる人」と「リスペクトできない人」がいて、自分が抱くそのリスペクトはどこから来るのかということに興味がわいた。結局のところ、「自己研鑽し続けているかどうか」だと思う。生まれながらに特定の信仰を持つことを決められている人もいれば、人生のどこかで自ら信仰し始める人もいるけど、そういう時期や時間の長さは関係ない。自分自身の信仰心や、宗派の宗教性みたいなものを、常に疑い続け、その度に解釈し直して、自分含めた世界を更新し続ける姿勢が大事。

エルサレムで暮らす、正統派ユダヤ教徒の人たちとすれ違いながら、この人たちは毎日めちゃくちゃ頑張ってるんだろうなと思った(語彙がアレだし非常に単純思考なのは承知)。真面目にイスラム教徒やろうと思ったらそれも凄まじい生活になる。山寺に篭るお坊さんみたいな。旅先ですれ違った現地の宗教的ピープルの中で、果たしてそういう自己研鑽型の暮らしをしてる人がどれくらいいるんだろうなと思いを馳せた。

厳しい宗教があると、それに対抗するように甘い宗教を唱える人が出てくる。これは生き方でも働き方でも何でもそう。糖質制限とかヨガとか筋トレとかオタクとか。「頑張らなくてもいい」という人が必ず出てきて、厳しさに疑問を持つ人たちがそちらに流れていく。でも一旦決めたんだったら、やっぱり突き詰めていかないと、だらしなく見える。外から見たらアホみたいに厳しい戒律でも、守ると決めて、この意味は何だとか神の意思はどうだとか考え続けている人たちを私は尊敬する。突き詰めた結果「何か違う」と思ったらやめてもいいと思う。まぁ仏教とかをそんな簡単に突き詰められるとは思わないけど。

 

日本はいわゆる「宗教」(キリスト教とかイスラム教とか)に身を浸してる人は少ないけど、特定の思想に対する信仰心みたいなものは他の国民と同じように皆持っていて(というかこれは人間なら誰でも持ち得るシンプルなものだと思う)、日々それと向き合いながら自分自身や周りの世界を疑い続けて更新し続ければ、自ずと友達ができる。リスペクトできる人も現れる。そうやって群れができていく。

根源的な思想や信仰と並行するように、混ぜ合わせるように、日常生活を送らなきゃいけないのは大変だけど、多くの人の世はそうやって回っているんだと思う。楽になれたらゴールなのかなぁ?それはまた別の話。